車が通り過ぎるのを待っている時に
いつの間にか、少しづつ暖かくなったと菜央子は感じた。
携帯を開けて日付を見ると、そこには
2006/3/1
とあった。
時刻はきっかり13時だ。
菜央子は携帯を閉じると、
黙って空を見上る。
あれから、ちょうど一年が経っていた。
菜央子はそのまま自転車にまたがり、
母校の近くを目指して走り始めた。
きっと今頃、彼は教室または昇降口前で、友人達と談笑しているのだろう。
「菜央子さん!」
菜央子がはばたき学園の近くの本屋で時間をつぶしていると、
背中に聞きなれた声がかかった。
振り向くと、予想通り日比谷渉がいた。
彼は片手に卒業証書の入った筒を持って、
満面の笑顔を浮かべている。
「ジブン、卒業できました!」
今日は、はばたき学園の卒業式だったのだ。
菜央子の卒業式ではなくて、
彼氏の日比谷のであるが。
菜央子は読んでいた女性向けファッション誌を置くと、
満面の笑みで
「おめでとう」
と言った。
その言葉を聞いて、日比谷は嬉しそうにガッツポーズをとる。
「ありがとうございます〜! これで、一人前の男に近づいたッス!」
「うん、良かったよ!」
菜央子はそう言うと、雑誌をレジに持っていった。
本屋を出てから、二人は歩道を歩き始めた。
菜央子は、買った雑誌をバックの中に入れた。
日比谷は歩き、菜央子は自転車をひいている。
まだ桜の季節ではないが、回りの木々は芽吹いて、春の訪れを感じさせる。
二人の隣を、はばたき学園の学生服を着た少年少女達が次々と抜かして歩いていった。
大部分は卒業証書を持った生徒達で、きっと日比谷と同学年だったのだろう。
現に何人かは、日比谷に向かって、
「ひびやん、じゃあなー!」
とか、
「ひびやん、今までありがと! 元気でね!」
と声をかけてきた。
その度に「じゃあなー! また!」
とか
「こっちこそありがと!」
などとリアクションを返す日比谷を見ていると、
学校での彼の人間関係の様子が想像できて、菜央子には結構楽しめた。
また中には、在学中の菜央子を知る
野球部の部員達もいて、
「小坂先輩! お久しぶりです!」と声をかけてくれた。
その度に菜央子も、笑顔で返事をする。
野球部の部員達は元気に手を振ると、
わいわいにぎやかに、足早に歩いていった。
多分、自分と日比谷を邪魔しないように、気を使ってくれているんだろうなぁと思った。
「あいつら、先輩の前で猫かぶってるんスよ」
日比谷のコメントに対し、菜央子はくすっと笑う。
「っていうか、今夜は野球部のみんなと遊ぶんでしょ?」
「あ、そうなんス! どっかで飯でも食おうかって話になって。
ジブン的には先輩と夜ご飯食べたかったんですけど…すみません」
「いやいや、気にしなくていいよ。遊んどきなよ」
しゅんとした日比谷に対し、菜央子は優しく言った。
大学に入ったり就職したりすれば、友人でも歩む道がずれていくことを彼女は知っている。
それだからこそ、高校の友達と過ごす時間というものがどんなに大事かを、菜央子はわかっていた。
「あ、じゃあさ」
自転車をひきながら、菜央子は何気ない様子でこう言った。
「昼ご飯一緒に食べようよ」
「…はいっ!! もちろんッス!」
菜央子の誘いに、日比谷は速攻でうなづいた。
ということで、二人は通学路にある喫茶店に入った。
菜央子が在学中に、よく立ち寄った店である。
と言っても、日比谷の下校時に会うときにはよくこの店で食べているから、
特に久しぶりという感じはしない。
メニューもいつもと同じである。
彼らは窓際の二人用の席に座り、
手早く注文を済ませた。
「いやー、それにしても壇上で証書もらうの、緊張したッス…」
「理事長の話、どうだった?」
「はばたけ!! 諸君! でした!」
と、料理を待つ間に世間話をしていると、
突然菜央子がこう言った。
「ねーねー、卒業アルバム見せてよ」
「え? いいッスよ」
彼は大きなアルバムのカバーを外し、
テーブルの上にアルバムを乗せる。
「広げていい?」
「どうぞどうぞ」
彼の許可をもらうと、
菜央子は子どものように嬉々としてアルバムを広げた。
「あっ! この子随分印象かわったねー! 髪が伸びたから!?」
「あー、このタイヤまだあるんだ」
彼女は見覚えのある風景の一枚一枚に弾むようなツッコミを入れていき、
やがて最後のページをめくった。
そこには、隙間も無い程に真っ黒に
友人からの書き込みで埋まっていた。
中には、女の子らしき書き込みも見られる。
「おお、すごいね。人気者じゃん」
さらにその中は、極めて大人っぽい書き込みがあり、
妙に異彩を放っていた。
見てみると、それは野球部の監督の書き込みだった。
「あ、監督!」
菜央子は見つけた!という風に声を上げる。
「職員室に行って、書いてもらったんス。
やっぱり…監督からの言葉は欠かせないと思って…」
日比谷がにこにこ笑うのを見て、
私は去年、監督に何を書いてもらったっけなあ…と菜央子は思いを巡らせた。
家に帰ったら、ちょっと確認してみようと思った。
そうこうしている内に、注文した料理が来た。
菜央子はリゾットで、日比谷はスパデッティである。
二人はいただきまーすと言って食べ始める。
「あ、そうだ」
ふと菜央子は手を止め、日比谷に向けて声をかけた。
「あのさ、夜まで時間ある?」
彼女の問いに、彼は、ん?と首をひねる。
「え? 七時までは暇ッスよ、どうかしましたか?」
「もし良かったら、ちょっとうち寄ってかない?
あ、あの、お願いがあるんだけど」
「何スか? 本棚でも壊れたんスか?」
「…なんで、わざわざ渉に大工仕事頼む訳…?」
「ジブン、そういうの好きですよ! 食器棚とか、戸棚とか直すの」
菜央子に対して、日比谷は楽しそうに笑う。
違うよと菜央子は言い、水の入ったコップを自分の近くに引き寄せた。
「で、何スか? 頼みって…」
彼の言葉に対して、菜央子は低く息をつく。
「ここじゃいえない」
既に、彼女らしい冷静な態度に危うさが見えていた。
日比谷は不思議そうな表情をすると、そのまま前に体を出して菜央子に話しかける。
「えー、気になりますよ 教えてくださいよ!」
「…………」
菜央子は黙ってコップを持つと、それを軽く回した。
氷がチリンチリンと鳴る。
氷の音と対して変わらないような小声で、彼女は言った。
「あの、あのさ、家に行ってからでいいんだけどさ…」
「はい?」
「良かったらさ、その…ボタン、欲しいんだけど…」
「へ?」
予想だにしていなかった菜央子の言葉に、日比谷はすっとんきょうな声を出した。
「ボタン?」
「ボタン」
「ボタン…ですか?」
「ボタン」
「ボタン」しか単語の出てこない問答を繰り返した後に、
菜央子は日比谷の胸元を指差した。
「ボタンだよ、そのボタン」
それは、いわゆる”第二ボタン”だった。
日比谷は事態が微妙に飲み込めないようだったが、
自分の胸元と彼女の指を見て
「あ、ああ… これのことッスか…」
と言った。
「……」
菜央子は何故か不調面にり、まるで小さな不満を言うような口調になって、
しかも妙に多弁に話し出す。
「だ、だってさ、欲しかったんだもん去年から。
同級生の子とかさ、後輩の女の子から
第二以外のボタンもとられまくっててさ、
それ見てたら、いいなーって思ってて」
「?」
菜央子の多少意味不明な言葉を聞いて、彼は眉をしかめた。
日比谷の特徴でもある、大きなぱっちりとした瞳が、
無言で「よくわからない」と言っている。
「ボタンって、後輩の子がもらうんだよね。卒業する先輩の思い出に。
あれ持ってる限りは、先輩の思い出と一緒ってことだよね。
いいよね、そういうの」
「……」
日比谷は菜央子を見ていた。
「…っていうか、私もボタンもらっとけば良かったなーって。
そうすれば、後輩の子達に渉を取られないかなって、微妙に思ったんだけど…
まあ、去年じゃ渉のボタンもらえないし、
つきあった初日にそんなこという彼女も気持ち悪いなと思って
…っていうか、本当は、今日渉が第二ボタン持ってるかわかんなくてさ
後輩の子に頼まれてあげちゃった可能性もあるかなーって…」
「いえ… あの、それは…」
日比谷は確かに今日、
卒業式の後に、後輩達にボタンをくれないかとお願いされたのだが、
きっと第二ボタンのない制服を着ている自分を見たらが菜央子が気にすると思い、
後輩に気を使いながらも断ってた。
「まあ、渉は優しいからね…」
一方の菜央子も、日比谷は自分を気遣って、
後輩にボタンをあげることを断るだろうと内心感じていた。
そんな計算をする自分に嫌気がさしてしまったものの、
ボタンごときで彼を気遣わせるのも申し訳ないと思い、
あえて第二ボタンのことは何も言っていなかったのだ。
「あのさ」
菜央子は突然口調を正して、さらっと言う。
「も…もう、やめない?
っていうか、自分が気持ち悪いんだけど」
そう言うと、彼女は水を飲んだ。
「…やっぱり、ドリンクバーにすれば良かったかな」
「……」
極めて無理やり話をごまかした菜央子は視線のやり場に困り、
仕方がなく前を向いた。
すると、そこには顔をわずかに赤くして、黙っている日比谷がいた。
菜央子は何だか困って、また妙に多弁になる。
「ま、まあ、気にしないで。
私もこんな彼女、ひくから!
忘れて忘れて!」
「……」
「つうか食べなよ! 冷めちゃうよ!」
「あ、あの、菜央子さん。オレ…」
「何?」
彼女が答えると、
日比谷は突然制服の上着を脱いだ。
「良かったら、第二といわずに、全部持ってってください!
いえ、っていうか、もう制服ごとあげます!」
「いや、そんなにいらないよ!」
と、すかさず菜央子は反射的に答えてしまった。
「制服は、三年間の汗と涙が染み付いてるんだから、記念にとっておきなよ。
私は第二ボタンだけでいいからさ」
とりあえず菜央子がフォローを入れる。
「…あ、そうスか…」
日比谷はとりあえず上着を椅子の上にかけると、
ちょっと大人っぽく笑った。
意図した動作ではなく、自然にそんな笑顔になっていた。
「っていうか、菜央子さん、可愛いッスね
ボタンって…」
「…そういうギャグはいらないよ」
「ギャグじゃないッス。やばいんですけど」
「だからもういいって!」
菜央子は内心、全力で照れながらも、
表向きは平静にグラタンを口に入れた。
「……!」
覚ましていなかったので、火傷をした。
END
色々やらかしたりと割と失敗も多い彼ですが、
将来はもっともっといい男になるだろうと、信じております…!
2006.3.1
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