コートの上を跳ねる球を追いかけて、うっかり部活に入部しました。
何故テニス部なのかと問われたら、
返す答えは特にない。
ただ、コートの上を軽やかにはねるボールに魅了されたから―
こんな答えを、人に言えるはずがなかった。
白球に魅了されて野球を始めた、彼女の兄のようだから
という訳で、日比谷歩は高等部に入学した途端、
なぜかうっかりテニス部に入ってしまったのだ。
本人も予想外の出来事であり、
これを友人の尽と玉緒に報告したところ、
二人とも豆鉄砲を食らったハトのような顔をした。
「歩がテニス部? 未経験のくせに?」
どうしてテニス部に加入したのか、彼女自身もわからない。
もしかしたら、中学時代に読んだテニス小説の影響かもしれない。
ただ言えるのは、入ったからには
しっかりと練習しようということだけだった。
歩は運動神経は良かったので、練習や技術の面はそれほど心配していなかった。
しかし、彼女の前に、ある大きな壁が立ちはだかる。
それは、「同学年の女の子との、きゃっきゃしたおしゃべりとおつきあい」
彼女達の中には、「スコートがかわいいから」、
「もてそうだから」とか「男テニがかっこいいから」などという、
噴飯ものの理由で入部してきた子達もいた。
そんな子に限って、人付き合いだけはうまくて
ウサギのようにキャッキャと笑いながらラケットを大振りして、
楽しそうにコートの中で跳ねている。
そんな様子が、真面目な歩には許せなかったのだ。
歩は部室でファッション誌を読むために入部したわけでも、
こいばなをしに入部した訳でもない。
しかしそんな彼女の態度は、口には出さずとも態度には伝わる。
しかもなまら可愛らしい顔立ちの歩に対し、
同級生女子の目線は日に日に厳しくなっていった。
「お高くとまっている」
「可愛いからっていい気になってる」
「お兄さんが有名な大学野球の選手だからって、
兄のナナヒカリで偉そうにしてる」
同学年の少女たちのひそひそ話は、同じ更衣室で着替えている歩にも
確実に聞こえていた。
その言葉のすべて(特に三番目)に対して、
彼女は静かな怒りを感じざるを得なかったが、
いちいち怒るのもバカバカしい。
歩は少女たちを相手にすることもなく、一人テニスコートへと消えていくのだ。
一方の男テニ部員たちは、
そんな歩に「孤高の子」などどいうローセンスなあだ名をつけて、
可愛い可愛いと遠巻きに言っていた。
馬鹿くさい。
彼女の目の前に広がるテニスコートと、
仰ぎ見る空の高さは小説で読んだ中身と一緒なのに、
やっていることがまるで違う。
私はテニスをしに来たのに
そんな歩の話を聞いた尽と玉緒は
「ストイックだなぁ」と関心するように言うが、
歩の肩をポンと叩いてこう笑う。
「ま、社会学習の一環だと思って頑張れよ。何かあったら相談にのるから」
「同い年のあんたに言われたくない」
尽の言葉に険のある口調で答えると、歩はスタスタと廊下を歩いていった。
尽に玉緒に兄の渉。
私の周りの人間は、友達づくりに苦労しそうにない連中ばっかりだ。
でも歩は、そうじゃない。
尽や玉緒とクラスが離れたらどうしよう
自力で友達を作ったこともないのに、私は人の中になじめるのか
歩がもっとも懸念していたことが、
クラブ活動において顕在化してしまったのだ。
ちなみにクラスの方は、入学式で友達をつくりそこねた
大人しそうな女の子がやたら歩にくっついてきて
ご飯食べよう教室一緒に移動しようと持ちかけてくるが、
彼女の気持ちもわかるのでそのままにしていた。
でも、どうして人は一人でいられないのだろう?
四月下旬のある日のこと。
その日の四時間目は数学だった。
数学委員だった歩は、授業のプリントを集めて、
それを職員室に運んでゆく。
彼女の傍らには、数学教師の氷室がいた。
ヒムロッチ
歩の兄の話では、彼はアンドロイドで教会の地下で生産されていて、
毎日食べる食事がカロリー単位で計画されていて、
チーズの味が変わるとメーカーに連絡する、という
ものすごい人物である。
兄や、兄のプロレス仲間の鈴鹿和馬や、その補修仲間の姫条まどかは
氷室を鬼だロボットだバイナリだと
歩の家の居間で真っ白な課題をにらみながら罵っていたが、
歩自身は、氷室に対して
そんなにふっとんだ印象は持っていなかった。
まあ確かに、かなり厳しい教師であるとは思うが。
「氷室先生」
「何だ、日比谷」
「ちょっと授業に関して聞きたいことがあるので、
後で職員室に行ってもいいですか」
「ふむ、本日の放課後なら数十分の時間は取れる。構わないだろう」
「ありがとうございます」
本当は部活があるのだが、まあ少しくらいいいかという気持ちに彼女もなっていた。
どうせみんな、テニスコートの脇でチーパッパやっているのだ。
そして放課後。
歩は部活動具を抱えたまま、職員室へとよった。
珍しいことに、氷室以外の教師の姿はない。
「氷室先生」
歩の言葉に、書類を読んでいた氷室は顔をあげる。
「日比谷か… 入りなさい」
「で、ここを聞きたいんですけど…」
歩の数学の質問に、氷室は丁寧に回答をしてくれた。
もともと頭の回転が早い歩のこと。
授業内容に関する質問自体は数分で解決した。
「どうもありがとうございます」
丁寧に頭を下げる歩に対して、
氷室は言う。
「疑問点を解決するのは重要なことだ。
わからないことがあったら、今後も遠慮せずに聞くように。
…ところで、君の兄上は元気か?」
「え」
突然ふってきた「兄」のフレーズに対して、
歩は一瞬固まるが、すぐに返事をする。
「はい、元気ですよ。最近は、大学で出会った彼女と楽しそうにイチャイチャしてます」
「…なんとも彼らしい」
氷室は失笑する。
「でも先生、何で突然兄の話題を?」
歩の問いに、氷室は目を細めた。
「昔、彼も放課後に私の元に質問に来た。
『どうやったら、先生みたいにイイ男になれるんスか?
やっぱりポイントはその眼鏡ッスか?』と」
「申し訳ありません」
氷室のモノマネが意外にうまいことにちょっとびっくりしたが、
歩はいたたまれない気分になった。
さらに氷室は言葉を続ける。
「彼は私の授業中に、堂々と寝ていた。
そして起きている時は、教科書を立ててその影で『月刊イイ男生活』を読んでいた、
ある意味感嘆すべき精神の持ち主だ。
さらに彼は、私の投げたチョークを必ずキャッチした。
さすがは野球部のエースだ」
「大変申し訳ございません」
歩は家に帰ったら、とりあえず兄の背中に向かって思いっきりパンチを入れることを決意した。
「日比谷」
氷室の声に、歩は顔を上げる。
「私は君の成績面においては、今の所は懸念はない。
まだ君は一年生だが、気を抜かずに学習に励めば、クラスのエースになるだろう」
「ありがとうございます」
氷室の突然のほめ言葉に歩はやや驚いたが、礼を述べる。
「君は兄上とは違う人種であるようだ」
「当たり前です」
会話の流れに、そこはかとない漫才感を感じたが、歩はそれをさらりと流した。
氷室は机の上の書類を整えると、引き出しの奥にしまう。
そして言葉を切り出した、
「…つまり、君が学校生活においてストレスを感じる場面は、
兄上とは同一ではないといえる。
兄上の得意分野であっても、それを君が得意だとは限らない、と言う事だ」
氷室の長い言い回しの向こうで、何かが隠れていることを歩は気づく。
そういえば、尽の姉は氷室と付き合っているのだ。
歩のことを、尽から聞いたのかもしれない。
いや、確か職員室から音楽室を通る廊下の窓から、
テニスコートがチラリと見えたような気がする。
もしかしてそこで、氷室は一人で黙々と練習をしている歩の様子を目撃したのか。
氷室はきっと、知っているのだ。歩の部活での状態を。
歩はもともと、赤の他人が自分の心に踏み込んでくるのが大嫌いな人間である。
そしておせっかいも嫌いであり、偽善者には軽蔑すら感じている。
いくら尽のお姉さんの彼氏で、学校の教師であるからと言って、
私の中に踏み込んでこられるのはやめてほしい。
そう感じた歩は、席を立ちあがろうとした。
しかしその時、狙ったように氷室が言ったのだ。
「…私の従兄弟に、はね学で生徒会長を務めている少年がいる」
意図せぬ話の流れに、歩の好奇心が思わずひきつけられた。
「…従兄弟さん、ですか?」
彼女の脳内では、はね学ブレザーを来た氷室の姿が再生された。
いや、いくらなんでもそんなにそっくりなはずないか。
「ああ。彼は非常に優秀な学生だが、理想を追いすぎて回りを見失う傾向がある」
尽から数々の「氷室面白伝説」を聞いていた歩は、
「先生もそうですよね」と一瞬言いそうになるが、何とか寸前で思いとどまった。
氷室は話を続ける。
「彼は日々自分の主張や提案を掲げているが
なかなか理解してもらえないらしい」
「はあ」
「彼は非常に一途で、一生懸命な人物だ。だが、それゆえに悩んでいる部分もある。」
歩は話の意図を理解する。
つまり、従兄弟と歩を重ねて話そうとしているのだ。
「…先生は、従兄弟さんに何か言ったりするんですか?
もっと考え方を改めろ、とか、妥協しろ、とか」
「私は何も言わない」
氷室の意外な言葉に、歩は少しびっくりする。
「私は、格が…失礼。従兄弟が自身と周囲の折り合いをつけられずに悩むのが
彼の高校生活であるならば、それで良いと思っている。
彼が私に助けを求めるならば相談に乗るが、こちらからやたらと手を伸ばすつもりはない」
「え」
歩の短い言葉をはさみ、氷室が話を続けた。
「周囲の理解が得られなくとも、自己を貫くのも悪くないと、私個人は考えている。
何よりも、高校生はまだ若い。
たとえそれで青春が無味乾燥なものになってしまったとしても、
その日々が彼に還元される時は必ず来る」
「……」
眼鏡越しの氷室の目には、いつもの冷ややかな色はない。
かといって、特別優しそうに微笑んでいるわけでもない。
どうともとれる表情が、歩にはなんとも心地よかった。
その時、職員室のスピーカーからチャイムの音が響いた。
部活開始の合図だ。
歩はつい、反射的に立ち上がってしまった。
そしてその後、あっと思ったがもう遅い。
その間の悪さに歩は内心苦虫を噛み潰したが、
氷室はふっと笑って言った。
「部活があるなら、行きなさい。
世間話につき合わせて申し訳なかったな」
「は、はい」
氷室の言葉に歩はうなづき、彼に背を向けて職員室を出ようとするが、
その瞬間に、背後から小さな声がかかった。
「さっきの従兄弟の例は、私の高校時代にも当てはまる。
まったく無駄で無価値な学生生活など無い。以上だ」
歩がはじかれたように振り向くと、氷室が穏やかに微笑していた。
歩は部活道具を持ちながら、テニス部の部室へと向かう。
私の道は間違っているかもしれない。
でも、それでも絶対直さなきゃいけない必要はない。
私はテニス部に、ボールを追うために入ったんだから。
そう考えると、何だかとても元気が出た。
なにをしてもいいんだ。
もしかしたら、今日同学年の女の子に話しかるかもしれない。
「その雑誌、見てもいい?」とか
もしかしたら、だけど。
END
余談ですが、宮本輝著『青が散る』は死ぬほど萌えるテニス小説なので、
(もちろんストーリーもめっちゃ面白いです)
ご興味のある方は是非…!
2008.2.24
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