戻れず降りれず進むのみ


昨日までの後輩は、
王子様になって、私を迎えにきてくれた。

入学したときは一人でくぐった校門を、
あの時知らなかった人と一緒に出ていった。





2005年3月1日。
菜央子は今日、高校を卒業した。
高校生としての、最後の下校である。

三月にしては少し肌寒い日だったが、
日差しは十分に明るかった。

昼下がり、菜央子は30分前に彼氏になった日比谷と一緒に、歩きなれた道を進む。
明日からはここはもう通学路ではないのが不思議だった。
そう思うと、見慣れた坂の風景も、何故か感慨深く見える。
何故か部活の練習の時に見た、夕焼けの色が胸の中によみがえった。

「どうしたんスか? 何か黙ってて…」
隣の日比谷の問いに、菜央子は軽く笑って答える。
「いや、もうここを毎日通ることもないかと思うと、何か色々考えちゃって」
「ああー… そういえばそうッスね。本当だ」
今気がついたのか、日比谷は彼女の言葉に大きく頷いた。
しかし彼自身は三月下旬まで学校があるから、
その感慨を自分のものとしてはまだ理解しにくいだろう。

「そういえばひびやんも、次で高三だねー」
「はい…受験生ッス。不安ッス…」
本当に不安なのだろう。日比谷は大きくため息をついた。
「受験するの?」
「出来れば高校を卒業したらプロになりたいんスけど…
  まだまだジブンには早い気もするし、
 とりあえず、受験勉強しないのは危険すぎッスから」
何気に現実的で地に足のついた考え方をするよなぁと思いつつ、菜央子は言う。
「じゃあ、私の使ってた参考書と問題集、あげるよ」
彼女自身は、大学に進学が決まっていた。

「え、先輩の参考書だと、ジブンにはレベルが高いッス!
 …問題自体が読めないかも…」
「そんなわけないって!」
彼女は苦笑して、彼の肩をポンと叩く。


「そういえば」
菜央子は右手で持っていたカバンを左手に持ち替えながら、言った。
「あっちの遊園地に、大絶叫マシーンが出来るんだって。知ってる?」
"あっち"の遊園地とは、いつも行っているはばたき山の遊園地ではなく、
電車で一時間くらいかかる大きな遊園地のことだ。まだ二人で行ったことはない。
何でも日本で最速の絶叫マシーンが新しく出来たそうで、つい最近乗客を乗せだしたばかりだ。

「ああ、よくテレビや雑誌でやってるやつッスねー 知ってます」
日比谷が頷く。心なしか顔がひきつっている。
望まぬジェットコースターに乗せられて、風圧に髪を逆立て泣き叫ぶ新人リポーターに同情しているのだろう。

「面白そうじゃない? ちょっと乗りたいかも」
「遠慮します!」
自分も怖がりのくせに無駄にスリルを追いかける性分の菜央子に対し、日比谷はきっぱりと断わった。
まあ予想はしていたが。乗らないってわかっていたけれど。

「ジブン、絶叫系は勘弁してほしいッス…
同じ遊園地の、怖いって評判のお化け屋敷だったら、いくらでもお供しますけど」
はばたき山の遊園地のお化け屋敷では彼はまるで怖がらず、
セットとお化けのメイクと演出方法に興味を示し、はしゃぎながら涙目の菜央子の腕を引っ張っていたものだ。

その時の、無駄にお兄ちゃんぶった態度に何故か悔しさを感じていた菜央子は
「お前が遊園地で好きなのは、お化け屋敷だけだろ」と言いかけたが、ぎゅっと口を閉じる。

「っていうか、ジブン、先輩にみっともないところ見せたくないんで…」
彼の言葉に対し、菜央子は「今更何を」と言おうとしたが、やっぱり口をつぐんだ。

付き合ってから速攻で、こんなことでケンカになったら馬鹿である。
というか、これでも菜央子は緊張しているのだ。
カップルの会話というものがわからない。

対する日比谷は、あの当たって砕けろ告白でもうふっきれたのか、
あまり緊張している様子はなく、いつもの通りよく喋ってよく笑う。



坂を過ぎたところで、ふと会話が途切れた。
途切れついでに周りを見てみると、はば学生が沢山いる。
その半分以上は、茶色の紙筒を持っている。卒業生だ。
そして何故か、二人組みの男女の手つなぎ率が妙に高い。
もしかしたら、今日は告白が異様に多い日だったのかもしれない。卒業式である。


その光景に対し、菜央子は急に右隣の日比谷を意識してしまった。
別に手をつなぐのがカップルの決まりではないし、
わざわざ無駄に仲が良いのを周りに誇示する必要も無いが、
正直つなぎたい気持ちもある。
でも言えない。


すると
「あの」
と、日比谷が左手を差し出してきた。彼の顔がちょっと赤い。
言いたいことは、わかってる。

そんな彼に対して、菜央子は無表情のまま、
左手に持ったカバンから卒業証書の筒を取り出して、彼の左手に手渡した。

筒を手に置いた時、「ポン」という音が聞こえたような気もするが、多分空耳だろう。
架空のポンの音と共に、日比谷の顔が少し不機嫌そうになった。
彼の感情は、良いものも悪いものもすぐに透けて出る。

「何スか、これ?」
「卒業証書」
「それは…見ればわかります」
「見るのかと思って」
「いいッスよ別に…」
「あー…」

このままだと、会話が彼が気にしている年下コンプレックスに突撃してしまうおそれがある、
ということに菜央子は気がついた。
デリカシーが無い。
筒は照れ隠しに対する動物的反射のつもりで渡したのだが、自分の可愛くなさをつくづく呪った。

しかし今更引っ込みもつかないので、
「この機会に、見とけば?」
と、ますます会話を変な方向に捻じ曲げそうになっている。

すると、日比谷は筒を菜央子の左手に押し付けて、
彼女の空いている右手を取る。
さっきまでの不機嫌な様子は既に引っ込んでいて、
恥ずかしそうにはにかんでいた。
そして、嬉しそうに顔中で笑う。
―切り替えが早い。

突然真っ直ぐな笑顔を向けられて、菜央子はとまどう。
鏡を見なくても、自分がどういう顔をしているのかがわかった。

手を取られてしまったことに、やられた感がありつつも、
嬉しくて、どきどきした。
自分は彼が好きなんだなぁと、はっきり自覚する。
あと、自分の手が汗ばまないようにと、必死で祈った。

内心妙に緊張して周りを見渡してしまったが、
周りの人々は自分たちのことで一杯で、誰も菜央子のことなんか見ていなかった。



二人は手をつないだまま、のんびり歩いた。
段々住宅街に入っていくと、周りの生徒達は少なくなっていき、
あたりも静かになる。
通りの家の門にかけてあるプランターの中身が芽吹いているのを見て、
もう春だなぁ と、ぼんやり菜央子は思った。

二件向こうの家の庭では、犬が寝ている。
この家を通り過ぎてさらに三件進んで公園を過ぎたら、分かれ道のY字路だ。


さすがにこのあたりまで来ると菜央子の緊張もかなり緩んだが、
いつもよりどきどきしていることには変わりはない。

いよいよ足がY字路にたどりつく。
今日は、ここでお別れだ。
菜央子はあと一時間半後に、奈津実たちと会う約束をしている。


車の通りがほとんど無い道である。
日比谷は「えーと」と言いながら、少し距離を取って、菜央子に向かい合った。
「あの…本当に、ジブン、今日は嬉しかったッス」

その声を聞きながら、彼女は彼と初めて会った時のことを思い出した。
あの時も、二人は向かい合っていた。
距離も、この位だった。
初めて見たときは、正直言って、何だか幼い子だなあと思った。
さらに彼の言っていることを聞いて、内心おいおいと思った。

二年前の彼と今見ている彼は、
明らかに同じ人間だが、まったく違う人間に見えた。
多分、菜央子の気持ちが変わったからだろう。
彼は「かっこいい男」という目標に対して、決してあきらめなかった。
そして、その道を見つけた。菜央子はそれが嬉しかった。
彼は将来いい男になるだろうし、その横に居たいと彼女は思った。
こうして彼を好きになって、付き合うことになった。


そんな菜央子の前で、日比谷は真っ直ぐに彼女を見て、言葉を続けた。
「オレ、菜央子さんが大好きです。
 だから、絶対大切にします。で、めちゃくちゃ良い男になります。信じてください!」

その言葉を聞き、彼女はふと一つの事実を思い出す。
告白の時、言い忘れていた言葉があった。
何故か、今、言わなくてはいけないと、痛切に感じる。
伝えたい。自分の気持ちを。

「私も好き。ひびやんが大好き。だから信じてる!」
思ったよりも、大声で言ってしまった。


珍しく素直になった彼女の様子に、彼はびっくりする。
「ほ、本当ッスか!?」
そして、物凄く嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。

思わず、菜央子は叫ぶ。
「本当に決まってんでしょ!」
「信じていいッスか!?」
「信じろよ!!」

「よっしゃーーーーーーーーーーッ!!!!!!!」
日比谷は会心の様子で両こぶしを握り、
「よっしゃ! よっしゃー!!!! あー、もうマジで嬉しいッス!!!!!!」
と飛び跳ねそうな勢いで叫んだ。

「声がでかいよ!」
照れ隠しに菜央子が言うと、彼は
「あ、すみません…」と言ったものの、嬉しさ全開のオーラは変わらない。

そして日比谷は菜央子を見る。
二人の目が合った。
沈黙が通り過ぎる。

すると、彼はこう言った。



「あ…あの、キス…したいんスけど…」


―直球すぎる。


それに対して冗談口調で「えー?」と言ってやろうかと菜央子は思ったが、
実際に口から出た言葉は、小さな
「ど、どうぞ…」
という間抜けな言葉だけだった。思考と実際の動きがつながってない。


そして二人は、誰もいない公園に入って、
さらにその中でも見通しがきかない木陰のあたりに向き合って立った。

もう、特に話す言葉もない。

そして日比谷は両手で菜央子の肩をつかんで、
自分の唇を彼女のそれに軽く合わせた。
そして離した。時間にすると、多分すぐ終ったんだと思う。


菜央子は固く眼をつぶっていたが、口付けが終ると伏目がちに眼を開ける。

緊張して、死ぬかと思った。
レモンの味などと言い出したのは誰だよと、心中で思う。

彼も真っ赤になっていたが、こっちは嬉しさを隠さない。
照れくさそうに、にこっりと笑った。

この笑顔と、今キスをした時に
首を少し上に向けなければならなかったことを合わせて、
この人は男の子なんだなあとしみじみと彼女は実感した。
そして、自信をつければつけるほど、いい男になっていくということも。


二人は手をつないで公園を出た。
別れ際に日比谷は
「またどっか行きましょうね!
 オレ、新しい絶叫マシーン以外ならどこでも行きますから!」
と言い残し、何度も振り返って手を振った。



菜央子はそのまま自宅に帰ると、着替えて軽く食事をして、
身だしなみを整えて出かける準備をした。

居間に行くと、弟の尽がテレビを見ていた。
昼下がりの情報番組だ。画面の中に、例の絶叫マシーンが映っている。
この前は、別の局でやっていた。本当に流行っているようだ。

「これ凄いよなあ、地上80メートルからの直下降と、世界最速のスピードだよ。ま、姉ちゃんじゃ無理だろうけど」
尽は振り向きざまに姉を見て、ニヤッと笑う。

「無理じゃないよ」
菜央子は応戦したが、すぐに
「無理無理」
と否定された。弟は彼女の性格をよく知っている。


画面の向こうでは、急下降のせいで顔の形が変わったリポーターが、絶叫していた。
その様子を見て、菜央子は思う。

「これさあ、80メートルから落下するって、どんな感じなんだろうね。
 一瞬で物凄いことになるんだよ? 当人にとっては、凄い怖いよね」
「まあ、怖いだろうな」
「急転直下降かー…」

そう言いつつ、菜央子は今日自分の身に起こったことを思い出した。

昨日まで後輩だった男と付き合うことになり、
帰り道に手をつないで、ファーストキスまでしてしまった。
昨日までは、考えもしなかったことである。


これが人生における超スピード状態じゃないとしたら、何なのだろう。
ジェットコースターに例えれば、正にあのリポーターと同じような感じじゃないか。

自分は乗りたくないと言ったくせに、
人を人生ジェットコースターに乗せてしまった日比谷に対し、
妙な怒りが沸いてきた。


人をこれだけドキドキさせておいて、
自分だけ格好いいなんて、許せない。
来週、あいつを絶対これに乗せる。
遠くの遊園地に、デートに行くことにした。


口をとがらせて画面を凝視する姉に対して、
弟は不可解そうに首をかしげるが、
姉が考えていることはだいたいわかるので、まあ放っておくことにした。
そして内心、
せいぜい振られないで頑張れよ、あと後輩の女なんかに取られるなよ、と毒づいた。

END 


珍しく、かなり糖度を高くしたつもりです。
告白の後、どうしたんだろう? と、ずっと疑問に思っていたので、
その後の話を考えてみました。

自分にとって、ひびやんを書くのって結構難しいんだなーと感じました。
でも日比谷大好きです。EDとか本当に意味わかんない。可愛すぎ!!
嬉しそうな様子とかを、もっと書けるようにしたいです。

2006.10.20

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