そのことに気がついたのは、店内に入って5分ほど経った頃だった。
僕はアルガードに入るとき、つい習慣から彼女の姿を探してしまう。
彼女は僕を見ると、いつも飛び切りの笑顔で出迎えてくれる。
でも、僕は反応を返さずに席に着く。
そして彼女は、少し下をうつむいて、僕たちに持ってくるお冷を取りに行く。
無駄な期待をしてしまった自分を責めながら。
そう、これが習慣。
でも今日は、彼女の姿が見当たらない。
休憩時間なのだろうか?
お冷を持ってきてくれたウェイトレスさんに紳士的な笑顔を返し、
僕と連れの女の子たちの軽食をオーダーする。
そして女の子たちは小鳥みたいにぴよぴよしゃべりながら、
僕に「ありがとー」と礼を述べるのだ。
僕は常におごり役。そしてこの場のオーナーである。
いつもの席で頬杖をついていると、向かいのテーブルに見慣れた男の姿があった。
葉月珪。
この店に時々来るモデルだ。確かはば学の出身者である。
よく雑誌の表紙を飾っているようだが、格段の興味はない。
その葉月の向かい側に、彼女と思しき女性がいた。
サラサラの髪と、くりくりした大きな瞳。なかなか可愛い。
つれて歩くなら、あれくらいのレベルの子を集めたいもんだ。
僕は自分の目の前の子たちを見て、不謹慎にもそう思った。
今度は少し努力をして、あれくらいの子を引っかけてみるか?
…まあいいか、僕にとってはどうせ遊びだ。
遊びに努力をするのも馬鹿馬鹿しい。
「タローくん、うちら、ちょっとお手洗い行ってくるね」
僕の正面に座っている子たちは、そう笑って席を立つ。
僕は愛想よくうなづく。
お手洗いでも、どこでも好きに行けばいい。
彼女たちがいなくなった途端、僕の席は急に静かになった。
すると、向こうのテーブルの会話が僕の耳に飛んでくる。
「あの子、今日休みらしいよ」
葉月珪の彼女が、心配そうな表情をした。
「…あの子って…ああ、あの子か…」
「うん」
「あの子」で会話が成立する関係。
重苦しいな、と感じざるをえなかった。
でも、僕の興味はもっと別のところにある。
「最近、顔色悪かったもんね… 昨日なんか、ふらふらしてたし」
「…客席にこぼしてたな、紅茶…」
やっぱり。
あの子は「彼女」のことだ。
ここでバイトをしている、僕の高校の後輩。
彼女は昨日赤い顔でふらふらしていたし、僕の席に紅茶をぶちまけた。
そして何度も謝りながら、地面にひざをつけ、それを雑巾で必死で拭いた。
「さっきコーヒー持ってきた子に聞いたら
あの子、昨日の時点で7度8分あったんだって」
「…休めばよかったのにな… 仕事する体温じゃない」
「で、今日はさすがにお休みとったらしいよ。何でも8度3分とか」
「…無理しすぎだろ…」
僕は息を飲んだ。
確かに昨日は少し具合が悪そうに見えたが、熱があったのか
熱があるのにバイトなんて、馬鹿もいいところだ。
あの様子で。お盆を持つ手も少し震えていたのに。
僕の足元で、口をぎゅっとゆがめて床を拭く彼女の姿が浮かんでくる。
具合が悪いなら、どうしてそれを教えてくれないんだ。
その時、連れの子たちが戻ってきた。
「タローくん、お待たせ〜」
彼女たちの履いているミュールの音が、カツカツと小さく響く。
どこにでもいるような、華やかで軽い子たち。
僕はその声を聞くと、反射的にバッグから財布を出し
千円札を数枚取り出す。
そしてこれ以上無いくらいさわやかな笑顔を作り、
席を立つと彼女たちに言った。
「ごめん、ちょっと急用が出来たんだ。
これで許してくれるかな?」
僕はそう言うと、目の前に立っている
同じ授業を取っている女の子の手に、何枚かの千円札を渡した。
彼女は少しポカーンとしていたが、すぐに取り繕って笑う。
「もー、しょうがないなぁ。じゃあ今度またゆっくり話してよ?」
「うん、ごめんね」
彼女のこなれた反応に、僕は安堵した。
僕は冷静に店を出て、冷静にショッピングモールに行き、
冷静にギフトショップに行ったつもりなのだが、
なぜか衝動的に果物のバスケットを買ってしまった。
バスケットのひもの部分には、ピンクのリボン。
僕にバスケット。似合わない。牧歌的すぎる。
何者だよ、という問いが自分の頭の仲をかけめぐった。
でも他にあげるものが、思いつかなかったんだ。
僕の向かう場所は、決まっていた。
「彼女」の家の場所は知っている。
はばたき駅から、電車に乗って二駅目。
手にしたバスケットの重みを感じながら、僕は切符を買った。
そしてホームに並び、何食わぬ顔で電車に乗る。
果物入りのバスケットを持った僕はやはり少し目立つみたいで、
座っている間にも、何人かの視線を感じた。
お見舞いに行って、これを渡してあげれば
彼女はそれはそれは喜ぶだろう。
あの晴れ晴れとした笑顔を浮かべて、僕に感謝をすることだろう。
でも、知っている。
彼女を病気にした原因を作ったのは僕だ。
彼女をわざと邪険に扱い、徹底的に失望を味あわせているのは
紛れも無いこの僕である。
足元の通気孔とおぼしき部分から、熱風が出ていて気分が悪い。
僕は無言で足の位置を変えた。
そしてひざの上に抱えたバスケットを見ながら思う。
こんなものを渡しても、彼女は幸せにはなれない。
彼女にとっては、僕こそが諸悪の権限なんだから。
僕なんかと離れて、同級生とでもまっとうな人生を歩めば良い。
遊園地やら文化祭やらパーティーやらではしゃいで、
優しい奴とくっつけばいいのだ。
その方が彼女のためなのに、そんなことも見抜けないなんて
あの子は本当にお人よしだ。
僕は君のために見舞いに行くんじゃない。
僕は僕の満足のために、君を利用するだけだ。
「ほら、僕は優しいでしょ?」と言いたいだけ。
―この期に及んでも、まだ自分の善人性を確認したがっている僕に、
僕自身が我慢できなかった。
やがて電車が目的駅に着き、僕はホームへ降りる。
あたりを染める夕焼けの赤い色が、嫌に暖かい感じで僕をイライラさせる。
牧歌的なバスケットも、ぬくぬくしたオレンジ色も不愉快だ。
そう思いながらも、僕は駅を出て道を歩く。
早く帰れ、帰った方がいいと思いながら。
果物は家のテーブルの上に置いておけば、誰かが勝手に食べるだろう。
彼女に会わなければ、僕も傷つかないで済む。
なのにどうして、僕は彼女の家に向かうんだ。
往生際が悪いことこの上ない。
そしてとうとう、僕は彼女の家の前に来てしまった。
ずいぶん小ぢんまりとした、庶民的な家である。
庭先では、植木鉢に入った小さな花が平和に咲いている。
それを見ると、ますます彼女への罪悪感がつのった。
普通の子なのに。
インターホンを押せない。
逃げたい。
何してるんだ?
早く帰らなきゃ―
そう思った時、頭上から声がした。
「…太郎くん?」
彼女だった。
彼女は窓から身を乗り出し、真っ赤な顔をのぞかせている。
どうやら本当に、ひどく熱があるようだった。
見つかった。
もう逃げられない。
僕はとっさに玄関のブロック塀の隅っこにバスケットを隠す。
さっきので見られていませんように、と必死で祈るしかなかった。
僕は見舞いになんか来ていない。断じて来てない。
やがてドアがガチャっと開き、熱っぽい顔をした彼女が出てくる。
「…い、いらっしゃい…」
彼女の声には強いとまどいと共に、かすれたような響きがあった。
目元もぼんやりとしているし、髪の毛も乱れている。かなり具合が悪そうだ。
何で出てくるんだ。早く寝ろよ。
フラフラで、今にも倒れそうな様子の彼女を見ると、なぜか怒りが立ち込めてくる。
どうして自分を、もっと大切にしないんだよ
「やあ」
心中のぐつぐつした気持ちを抑えながら、僕は冷ややかに笑った。
「今日は家にいるんだね」
わかりきったことを言う。
僕の言葉に、彼女は弱々しく笑った。
「うん、ちょっと風邪ひいちゃって…」
38度はちょっとじゃないだろと僕は思ったが、彼女の言葉をすっぱり切る。
「風邪だなんて、自己管理が出来てないんじゃない?
そんなことで、社会に出て通用すると思えないんだけど」
こんな僕なんかに、社会の心得を説かれたくないだろう。
それでも彼女は真に受けて、下を向いてうつむいてしまった。
「そうだよね…」
どうしてもっと怒らないんだろう。
君はもっと、僕に腹を立ててもいいはずだ。
酷く恥じ入ったような彼女の顔に、僕は昔の自分を見た。
ひたすらに好きな人の言葉を善に解釈し、自分を責める姿―
馬鹿じゃないか。さっさと手を噛めばいい。
そうすれば、君は自由になれるのに。
「ごめんね。心配かけちゃって…」
「え? 何をうぬぼれてるの? たまたまここを通りがかっただけなのに。
お見舞いに来たと思ったの?君って案外図々しいんだね」
僕の余りに冷たい言葉も、彼女は本気で受け止めたようだ。
小さく咳き込んで、「そうだよね、あはは…」と無理やり笑いを作った。
とにかく、こんな茶番はもうたくさんだ。
もう可愛そうで見ていられない。
「ま、うつされるのはごめんだから、僕はこれで」
僕はそう言うと、足早に彼女の前から立ち去った…ふりをした。
彼女の家の門から少し離れ、電信柱に隠れる。
そして彼女がドアを閉めたのを確認すると、
こそこそと門のブロック塀の影に置いたバスケットを取りに行った。
まったく、本当にただの馬鹿だ。
でもいい。僕みたいな馬鹿にはこれがお似合いさ。
その時、横から声がかかる。
「おい」
僕がふいっと横を見ると、ランドセルを背負った男の子が僕を見据えていた。
少し長めの赤っぽい髪の毛。顔にははっきりと怒りの色がある。
彼は強い口調で言った。
「お前、おねえちゃんをいじめてる奴だろ?
おれ、知ってるんだからな」
「いじめ」とくるとは思わなかった。
でも、すぐに思い直した。
ああ、僕がしているのはいじめだ。間違いない。
「お前のせいで、三年に入ってから、おねえちゃんが毎日つらそうなんだ!
毎日喫茶店のバイトばっかりで、疲れきってるんだよ!」
少年の怒りが僕にぶつけられる。
この子が、昔彼女が話していた「遊くん」だろうか?
大学生相手にしっかりと怒りを投げられるなんて、
なかなかじゃないかと僕は思ってしまった。
でもこの子の声のせいで、彼女が降りてきてしまっては、非常にみっともない。
早くここから離れなきゃ―
「ねえ」
僕は遊くんに声をかける。
「彼女と、一番仲が良い女の子は誰?」
「何でそんなこと、お前に言わなきゃいけないんだよ?」
「いいから!」
遊くんの怒り声につられて、つい僕も口調が荒くなってしまった。大人気ない。
僕の剣幕に驚いたのか、遊くんは小さくつぶやく。
「…水島密」
その名を聞いた途端に、僕はこう言いながらバスケットを遊くんに押し付けた。
「じゃあ、水島さんからってことにして、彼女にこれを渡してくれないかい?」
「え?」
遊くんは怪訝そうな顔をする。
「でもこれ、あんたが買ったんだろ?」
「どうでもいいんだ、そんなこと。
嫌だったら君にあげるよ。
とにかく、僕の名前は出さないで」
僕は精一杯の冷静さを装って言う。
そして、そのまま無言で歩き出す。
背後では、遊くんがキョトンとしているんだろう。
でもいい、これでいい。
僕が何かあげたって、彼女のためにならない。
いや、僕なんかいないほうがいいんだ。わかってる。
だからもう、アルガードにも行かない。
道に整列した電柱に向けて、僕はそう誓った。
行くもんか。行っちゃだめなんだ。
でも知っていた。
僕はどうせ、すぐにまたあの店に行く。
理由は追求したくない。
とにかくもう、彼女のことで頭を引っ掻き回されるのはたくさんだ。
早く自分の日常に戻りたい。
2008.3.11
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