2006年2月14日、朝五時。
完徹した私の目の前には、異様な固まり方をした、謎の物体があった。
湯せんにかけるまでは、どう考えてもチョコレートだったのに。
最早どこをどう失敗したら、こうなるのかわからない。
私は半分うつろな意識の中で、
おかしい、私がこんなに料理下手だったわけはない、と自問自答していた。
あれ?おかしいな だって作ってるよ、週何日か、渉のお弁当。
まあ、お弁当に関しては、色々と小手先の策を練ってはいるけれども、
それは今はどうでも良い。
それに、毎年手作りであげていたが、
今までこんなに凄い失敗はしたことがないのに…
尽のおかげだったのだろうか。
そして今の問題はチョコだ。
万が一のことを思い、材料を二個分買ったのだが、
信じられないことに、どっちも失敗してしまった。
何とか矯正しよう、人様にあげられるものにしようと試行錯誤を繰り返すうちに、
どんどんと取り返しの付かない方向に向かっていったのだ。
そうして、意地で直しているうちに、完徹になってしまったのである。
椅子の上に座った私は、今、死人のような顔をしているのだろう。
しかも今日は、朝から晩までバイトがある。
バレンタインには、ジェスでもキャンペーンを行なうのである。
ただでさえ人手が足りず、元々シフトを入れなかったにも係わらず、
キャンペーン班として、半強制的にシフトに組み込まれてしまった。
でも人手が本当に少ないのはわかっているので、休むことなど出来るはずもない。
悪いのは、それを知っていて完徹をした私だ。
そして、あーあやっちまったよ的なある種のあきらめと、
どうにかして時間を戻せないものかというあがきの心が、私の中で渦巻いていた。
死人の様子を呈していた私の後ろっかわで、声変わりの兆候を見せつつある
弟の声がした。
「おっ、姉ちゃん、今年は早起きだなー 感心、感心!」
尽。弟。文句を言いながらも毎年手伝ってくれる子。
きっと今年も、私を手伝うために早起きをした。本当は感謝している。
…完徹ゆえに、言語がそのまま脳の中を飛び交っている。ひどい。
尽はテーブルを覗き込むと、小声で「げっ」と言った。
彼の表情に、からかいの色は無い。
「…姉ちゃん、何で俺を起こさなかったんだよ…」
「毎年起こすの、悪いから」
私は疲労のせいで、普通の受け答えしか出来なくなっていた。
冗談をいれる余裕など、最早無い。
「…姉ちゃん、いくら日比谷でも、これはやばいと思うぞ…」
「知ってる」
「材料、新しく買いなおしたらどう?
この辺に、24時間営業の店って無かったっけ?」
「ない」
弟に対してでも、本当に失礼な受け答えになってはいるが、
この時の私は、それほどいっぱいいっぱいだったのだ。
キャンペーンのための特別出勤時間のせいで、朝七時には家を出なければいけない。
身支度をする時間を考えると、チョコを作る余裕はもう無い。
ましてや寝る時間など。今寝たらきっと、夕方まで起きない。それも最悪だ。
「…予備のチョコ、用意したか?」
「してない」
「他のチョコ、ないのかよ?」
「ない」
「……」
尽はため息をつく。
きっと、本当に呆れているのだろう。
「しかもその顔、完徹か? …来年からは起こせよ?」
と、とうとう来年の心配までされてしまった。
六つ下の弟に気を使わせているこの状況に、本当に申し訳なくなった。
しかし私は死人だったので、
「うん」
と頷いたまま、台所を出て行く。我ながら、本当に身勝手だと思ったが、
目がぼやぼやして気持ちが悪くて仕方がない。
心の中で、ごめんなさい、とつぶやいた。
背後で、
「ねえちゃん! これはどうすんだよ!」
という声が聞こえたので、
「責任を持って、わたくしが後で食べさせて頂きます」
と答えておいた。
私が作ったものであり、
食べ物である以上はきちんと食べておくべきである。
そして私は自分の部屋に戻ると、
今日着る私服に着替えた。
バイトが終わった後に、渉の家に行くのだ。
変な格好では行きたくない。
そして寝不足のクマを隠すために、普段より気合を入れて化粧をする。
キャンペーンの時に、死人なのがばれたら恥ずかしい。
朦朧とする意識の中で、私は今日の予定を作り上げていた。
バイトの休憩中に、同じ建物の中にある洋菓子屋でチョコを買おう。
それなら、きっと美味しいし、渉も喜んでくれるはず。
いくら完徹で作ったとはいえ、
失敗したチョコをそのまま彼氏にあげるような女には思われたくなかった。
休憩中、少しでも寝る時間を確保したかったが、もはや仕方が無い。
私は口で「好き」と言うのが苦手なので、物や、かすかな態度でしか示せない。
バレンタインは、私の気持ちを口に出さないで伝えることが出来る絶好の機会だった。
しかも、付き合い始めて初めてのバレンタインだ。
楽しみにしているのは、目に見えている。
渉の受験のせいで最近会えなかったが、
まったく関連の無いメールの文面からでも、
何故か「バレンタイン楽しみにしてます!!!」オーラが溢れている気がした。
…それは、私の考えすぎか。
だから渉には、確実に喜んで欲しい。
ならば安全策でいくしかない。
それに実は小心者の私は、変なチョコを渡して渉を不快にさせるのが怖いのだ。
渉は素直でかなりわかりやすい性格ではあるけれども、
人間である以上、心の中でどう思っているかは、全部はわからない。
そして彼は本当に傷つくと、必死でそれを隠して明るくふるまう人間だから、
私は彼を傷つけるのが怖かった。
私は準備を済ませると、
荷物を持って家を出た。
台所では、尽が心配そうに私を見ていた。
ごめんね。
今日、あの子の分のチョコも買っておこう。
ショッピングモールビルの従業員用入り口をくぐり、
ジェスのテナントに行くと、
速攻で花椿先生に死人っぷりを指摘された。
「ちょっとアンタ!!! 何なの、その死んだ魚みたいな目は!!!!」
上からかなり厚塗りしたのに、一発で見破るのは、流石プロだと思った。
私が謝ると、
「もういいから、サッサと支度しなさい!!!」と檄が飛ぶ。
先生はかなり変わった人ではあるが、仕事に関しては一切の妥協を許さない。
渉に言わせると、先生も「イイ男」の一人だそうだ。
バレンタインデー限定のキャンペーンは、
ある程度以上の金額で服を買ってくれたお客さんに対してクジを引いてもらい、
番号に合わせて花椿ブランドの商品をあげる、というものである。
中の商品が、ある意味オマケとはいえ全て花椿先生デザインの限定小物であり、
それをさらにオリジナルの袋に入れてプレゼントする。
この袋詰めと、クジ作りや店の飾りつけの作業が思ったよりも時間がかかり、
前日までに終わらずに、ショッピングモール側の許可をとって、
出勤時間がいつもよりもかなり早めになってしまったのである。
しかも私は一応バイトの中では古株なので、始終他の子たちから呼び出しをくらったり、
指示を出したりで、こまねずみ状態だった。
完徹がひびいて死にそうになったが、まだここで死ぬわけにはいかない。
そしてショッピングモールがオープンすると、どやどやと人が入ってくる。
初めは子どもを連れたお母さんが多かったが、時刻が進むに従って、
カップル率がだんだん高くなっていく。
去年までは、「わぁ、いいなあ」という目で見ていたカップルだったが、
一年弱の経験を経て、人と付き合うのも色々苦労があると私は学んだ。
なので、彼女の方に対して妙に親近感がわく。
それにしても、彼氏の前にいる女の子って、どうしてあんなに可愛い笑顔で笑うんだろう。
好きな人に見せる笑顔は、無意識に一番可愛い顔になるんだろうか。
カウンターの中で、少し首をかしげる。
私は、あんなに可愛い顔で笑えてるのかな
自分でわかるはずも無かった。
と、感傷に浸る暇も余裕もほとんど無く、
お客さんが山のようにやってくる。
こうなると、もはや死人とか言っている場合じゃない。
昼過ぎに、やっとに休憩時間がきた。
私は名札をバッグの中に入れ、財布と携帯を持って洋菓子店へと急ぐ。
もうバレンタイン当日だけあって、チョコを買う人は昨日までよりは減ったようだが、
それでもお店は賑わっていた。
学校の都合か何かで早く終わってしまった中学校もあるようで、
中学生らしきカップルや、今から渡すチョコを買っている女の子もいる。
…高校に通っている、好きな人にでも渡すのだろうか?
あと、ピンク色の髪の毛の凄く可愛い男の子がいた。
年は多分尽と同じくらいだろうが、男の子の一人客は珍しいので、必然的に目だってしまっている。
彼は紙袋にいっぱいのチョコを入れていた。きっと女の子達からもらったのだろう。
なのに更に、自分でも買うのか。筋金入りのチョコ好きのようだ。
そう思っていると彼と目が合った。
そして、にこっと微笑みかけられる。
本気で可愛かったので、ちょっとときめいた。
お店の前の方には、
デーンと高級チョコが並んでいた。
今年はバイトを増やしたので少し裕福だし、財布に現金も入っている。
よし、奮発して15リッチを買おう。
きっと渉も喜ぶだろう。
私は一番美味しそうで、自分でも食べたいなと思えるチョコを持ち、レジで会計をしてもらった。
あー 良かった 救われた。
これで何とか、私の面目も立つ。
フラフラの頭でそう思ってショッピングモールの通路を歩いていると、
手をつないで前を歩くカップルの会話が耳に入った。
二人とも私服なので、大学生だろうか。
「なあ、これからどうすんの?」
男の子がしゃべっている。
「三階のカフェに行こうよ」
女の子が笑いながら返事をした。やっぱり、彼氏といる時の女の子は可愛い。
「カフェ?」
「うん、そこで、渡す」
「何を?」
「知ってるくせに!」
何か、去年の私と渉のやり取りのようだ。
二人は私の存在など全く気にしないようで、会話を続けている。
「あのね、そこのカフェ、今日だけチョコレートの持ち込みが可なんだよ」
「よく調べたなー すげえ」
彼女はきっと、何日も前から念入りに雑誌やネットで情報を収集し、
この日に備えてきたのだろう。
何だかこの子、渉っぽいなと勝手に私は決め付けた。
「手作り?」
「…一応」
女の子は照れたように笑って、軽い調子でこう言う。
「まあ、お店のチョコレートの方がどう考えても美味しいだろうけど、我慢してください」
それを聞くと、男の子は口を尖らせた。
「味じゃねえだろ、味じゃ。手作りが好きだし。無理ならいいけど」
「…でも、味は絶対負けるけどね。店のとじゃ」
「要は心だよ心。心の入り具合」
その言葉を聞いた時、私は何か大きな衝撃を食らった気がした。
無意識にモールの通路で一瞬立ち止まり、ぼんやりする。
前のカップルは、私に気づかずにのろけながら前へ消えていった。
そして私は自分が人の流れを止めていたことに気が付き、
何も無かったかの様に歩き出す。
でも、心はぐるぐるに回っていた。
自分への疑念が止まらない。
味じゃなくて、心だよ。
実に使いまわされたフレーズのような気がするが、
それだけ事実、ということだ。
私は今日本当に、渉の気持ちを考えていたのだろうか?
失敗したチョコを渡したくないのは、
渉を傷つけたくないからじゃなくて、
自分が失敗したということがばれるのが、恥ずかしかったからじゃないだろうか?
つまり、自分のためである。
毎年手作りチョコをあげていたのに、突然店のチョコになったら、
渉はどう思うだろう。
困惑し、自分への気持ちが薄くなったと思われても無理は無い。
彼に直接聞けるわけも無い質問が、頭をぐるっと駆け巡る。
どうして、こんなことに気付かなかったんだろう。
私は綺麗にラッピングされたチョコを見ながら、
自己嫌悪の念と、チョコへの申し訳なさにさいなまれていた。
チョコを作った職人さんは、何も悪くない。
なのに自分の身勝手のせいで、このチョコに対して素直な感情を抱けなくなってしまった。
外見では平静を取り繕っているが、
本当はしつこくて抑制のきかない人間である。
色々な自分への嫌な感情が、休憩後もずっとついて回っていた。
振りほどこうと思ったが、少しでも暇が戻るとまたわき起こる。
私は本当は、自分のことしか考えていなかったんじゃないか
もしかして、すごく自分勝手な人間なんじゃないか?
バイトではずっと、そんな調子だった。