2012年の暑い夏、浜辺沿いの道路を進む一台の自転車。
今年で20歳になった尽は日焼けした肩を気にしつつも、日差しをたっぷりと浴びながら
軽快に自転車を漕いでいく。
彼は未だに自宅に住んでいて、
小学校からの親友、紺野玉緒と同じ大学に通っていた。
別に示し合わせた訳ではないが、偶然一緒の大学になってしまったのである。
学部もサークルも違うので、キャンパス内であまり玉緒の姿を見ることはないが、
付き合っている女の子と一緒にベンチに座っていたり、
昼休みに友人と談笑している姿は時折見かけたりする。
一方、もう一人の親友である日比谷歩は、家から離れた有名大学を進路に選び、
見事合格して18の春から一人暮らしのために引っ越していった。
どう考えても一人暮らしをせざるを得ないような大学を選んだのは、
何か理由があるのかと内心尽は勘ぐってしまったが、
特に思い当たることは無かった。
そして今日は、歩が帰省する日なのだ。
本人に聞いたところ、朝には自宅に到着する予定だったはずである。
兄の渉はもうとっくに家を出ているものの、
両親との家族水入らずを邪魔しちゃ悪いかな
と思って、尽は今日会うのは控えるつもりだった。
しかし、新はばたき駅付近に出かけた自分の母から、意外な目撃情報を聞いたのだ。
今日、海の近くの道で一人で自転車に乗っている歩を見た、と。
新はばたき駅付近は繁華街であるし、
その辺を自転車で走っていても別に不思議はないと思うけどと尽が言ったところ、
歩ちゃんはこっちにも気がつかないし、何か思いつめていたみたいだったから
少し気になったのと母が言った。
確かに、10年近くも付き合いがある自分の母にも気が付かないなんて、
歩らしくない。
何かあったのかなと、尽は首をかしげた。
そして午後になり、何故かこうして海近くの道を自転車で走っているのである。
何だかよくわからないが、歩に会いたいなあと思った。
しかも、出来るだけ連絡無しで。
いきなり会って、びっくりさせてやりたい。
それにしても、海の近くを走っていたからといって、海にいるとは限らない。
確立を考えれば、この時間が無駄になる可能性の方が、圧倒的に高かった。
それでも、彼は自転車を走らせる。
俺も変な奴だよなぁと、彼はちょっと自分に対してからかいの気持ちを持った。
だが、奇妙な偶然が起きたのだ。
炎天下の中を進んでいくと、浜辺の一角に、見覚えのある後姿があった。
そして近くの小さな駐輪場には、やはり見覚えのある自転車。
尽は、本当かよと思いつつ、自分の自転車を停めてその人物を見る。
中学生のような小さな背中に、
ノースリーブから出た白い肩。
柔らかそうな茶色い髪が、潮風にばさばさと揺れている。
体育座りをしている横には、メロンジュースのペットボトルが置いてあった。
間違いない。
「あゆみーーーー!」
尽の声に、その人物は瞬時に反応した。
童顔の顔立ちに不似合いな、落ち着いた雰囲気で、
色白ゆえに、うっすらそばかすの出てしまっている頬。
やっぱり、日比谷歩である。
「つくし」
歩は少し驚いたようだが、すぐに軽く笑い返した。
「ひさしぶり。何してんの」
「それはこっちのセリフだろ。何、海見てんだよ」
尽も笑顔を浮かべて自転車を降り、彼女の隣に行く。
「うわっ、潮くせっ! お前、こんな所に座ってたら、髪がべたべたになるぞ」
「洗うからいいよ」
久しぶりに会ったものの、彼らの間は変わっていないということが、
この短いやりとりのなかでお互いに伝わった。
男と女であるが甘さはなく、会う会わないも気分次第。付かず離れずの関係である。
自分をかわいく見せようと取り繕う女の子に食傷気味だった尽にとっては、
彼女との関係は清々しいものだった。
小学生時代から、唯一付き合いが続いている女友達だ。
一方の歩にとっても、尽と玉緒は大切な存在であった。
優等生であると同時に、かなりの人見知りである歩にとって、
人間関係はわずらわしさの多いものである。
しかも女子ともなれば、面倒くささも倍増する。
尽の見た限りでは、歩には女子の友達は多くはなかった。
他人に媚びず、毅然とした彼女を「かっこいい」と思う女子もいたようだが、
彼女から他人に接近する、ということはほとんど無かった。
歩は可愛い顔立ちをしているが、性格は無愛想で生真面目である。
他人に合わせることが苦手で、休み時間には意味の無い会話よりも、読書をすることを選ぶタイプだった。
人間関係の流動的な大学では、歩はきっと生き生きしていると思ったのだが、
今日見た彼女の顔は心なしか暗い。
ところでどうしたんだよ今日、なにかあったのか?
と聞きたいものの、普段多弁な口は何故か動かない。
言いたいことほど素直に言えない、という己の性質を、尽は既に理解している。
会話も、世間話から始まった。
「で、そっちはどうなんだよ? 俺と玉緒は元気だよ」
「普通だよ」
「彼氏、出来たか?」
「今はいない」
「前はいたんだ」
「彼氏に対しても可愛げのない女は嫌いだって、五日でふられたよ」
「しょうがねえ男だな」
「本当だよ」
歩は苦笑した。しかしその笑顔に、未練たらしいものはない。
「尽はどうよ」
「今はいない。こないだ、また最短記録更新しちゃったよ」
尽の言葉に対し、恋愛って意味不明だよねと二人で笑った。
潮風の運ぶ砂が、頬に時々ぶつかってくる。
頭はきっと、じゃりじゃりになっていることだろう。
「でさ」
遠くの浜辺で泳いでいる犬を眺めながら、歩はつぶやいた。
「けっこん、するんだってね」
彼女はあえて尽の方を向かない。
主語がなくても、誰と誰が結婚するのかは明らかだった。
というか、少し前に尽も本人から聞いた。
「ま、いつかはすると思ってたけど、やや早かったな」
「早くはないよ。今年で25だもん。そっちは26だっけ?
ところで、うちらの関係って何なんだろうね。
義理の兄妹?」
「かなー…
っていうか、結婚式でお互いに正装して親族紹介だぜ。
噴き出すかもしんない」
「私も笑う」
歩の返事に合わせるかのように、尽はふざけた調子で言う。
「新婦の弟の尽です」
彼女もそれに乗った。
「新郎の妹の歩です」
そして二人でげらげら笑う。
歩は足元の砂を掴むと、横に軽く投げた。
「今日さ、駅についたらお兄ちゃんが迎えに来ててさ、
わざわざ休みを利用して来たらしいよ。私の迎えに」
「へー 感動的な兄妹の再開じゃん」
尽の適当な相槌に笑いながら、彼女は話を続ける。
「で、車で移動したのよ。
その間、のろけのろけのろけ。一面ののろけ」
歩は失笑した。
「うちの姉ちゃんも、その五割減くらいでのろけモードに突入してるよ」
五割減でも、結構ひどいねという彼女の言葉から、
渉ののろけがどれほどひどかったのかが、容易に想像できた。
もっとも、今年の新春プロ野球選手スポーツ大会で、
女子アナに「彼女はいるんですか?」と聞かれて、
大真面目に「高校時代から付き合っている彼女がいます!」と答え、女性ファンを減らした彼である。
彼がどれだけ尽の姉が大好きで大切に思っているのかは、尽もよく知っている。
そして、多分歩も。
尽は渉のことは嫌いではなかったが(そうじゃなきゃ、弟子なんかにしていない)
歩が自分の兄のことをどう思っているのかはあまり聞いたことが無かった。
玉緒なんかは素直に「僕、渉さんみたいなお兄さん、けっこう欲しいかもな」と言うのだが、
その度に歩は、ふざけたポーズをとって「あげるよ」と笑うだけだった。
ジュース飲む?と歩がメロン色のペットボトルを差し出すと、「おっ」と言って尽はそれを受け取る。
礼を言ってそれを飲むと、既に炭酸が抜けそうになっていた。
肩に日差しが落ちる。きっと明日はひりひりだろう。
隣の歩の、不思議なほどの白さが気になった。
もともと日焼けを嫌う彼女だから、この夏も徹底的に紫外線対策をしていたはずである。
それなのにノースリーブで海にいるとは、何か理由があったのか。
「お兄ちゃんの指輪が何か立派に変わっててさぁ。
婚約指輪?
あの人が、あんなものをはめる日が来るとはね」
歩の口調は、とても妹が兄に対して言うものとは思えない。
尽自身も、渉は年上というよりも横並びの友人だと思っていた。
特に、彼が高校二年の時までは。
それ以後は勝手に身長が伸びて、顔立ちも妙に大人っぽくなって、どう見ても「大人」になってしまった。
しかも現在は、某球団の若手ピッチャーとして女性たちにも人気の模様である。
日比谷渉が数年前までは高校生のくせに中学生にしか見えなくて、
自分と一緒に「月刊もてる男生活」を回し読みしていたなど、言っても誰も信じないだろう。
もっとも、話してみれば相変わらず子どもっぽい所も残っているのだが…
と同時に、高校時代は妙にぬけていて、いちいち気を回さなければいけなかったような自分の姉も、
大学に進んで、やたらとしっかりしてきた。
そして会社に勤めるようになってからは、完全に見た目は「大人」である。
彼らよりも少し上の世代が大人になるのを眺めていると、
自分の周りも、確実に時が流れていると感じてしまう。
「…20歳って、もう大人なんだよね…」
歩も、同じ事を考えていたようだ。
「法律上はな」
尽は腕を上に持ち上げて、肩をほぐす。
「俺、自分が大人だなんて、とても思えない」
横顔しか見えなかったが、歩はきゅっと唇をむすんでいた。
やっぱり、何かあったのだろうか。
歩は照りつける日差しのまぶしさに顔をしかめ、手で影を作る。
長いまつげが、ぱちぱちと上下していた。
→後編
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