小学校二年生のころ。
「算数の授業で使う、計算ボードセットが欲しい」
日比谷歩が母親にそうねだった瞬間、母は押入れをこじ開け
少々古くなった「小学3〜4ねんせい・けいさんボードセット」
を取り出した。
そして母は、そこに書いてある「日比谷渉」という名前のさんずいの部分を
ホワイトで強引に消す。
その後「これでいいよね?」と、曇りの無い満面の笑みを浮べて
歩にそれを手渡したのだ。
この瞬間、日比谷歩は自分の名前がいかに適当に付けられたのかを
痛感した。
適当な名前の子。
そしてこの言いようのない気持ちは、恐らく大人になるまでは
ずっと彼女の中でくすぶり続けているのだろう。
いい加減にも程がある。
私はミケや、ポチじゃない!
彼女は心の中で、思いっきりそう毒づいた。
そして小学校3年生になった日、クラスに転校生がやって来た。
彼の名前は、小波尽。
尽はそつなく自己紹介をした後で、歩の隣の席に配置された。
すると急に、尽がじっと歩を見つめだしたのである。
ちょっと吊り気味の、くりっとした瞳。
ある意味、歩と同じ系統の瞳の持ち主だった。
他人に視線を向けられるのが嫌いな歩は、
彼の無遠慮さに対し、冷めた怒りの視線をもって
それに答えた。
しかし尽は、ひるまない。
そして彼は、何故か突然、屈託なく笑い出したのである。
いきなり降ってわいた嫌味の無い笑顔に歩が絶句していると、
尽は歩の机の中から少し飛び出している
「小学3〜4ねんせい・けいさんボードセット」を指差して
こう言ったのだ。
「なあ、日比谷渉の妹だろ?
名前、そっくり。っていうか…それ、元日比谷の? 修正液のあとがある」
歩の兄を知る人は、歩の名を見て、必ず笑う。
「さんずい、消しただけ?」
−私はある意味、呪われている。
「お前の兄ちゃん、俺の一番弟子なんだけど…」
すました笑顔になった尽に対し、歩は内心、うるせえと毒づいた。
−お父さん、お母さん。
私、改名したいんですけど。
しかし世の中は不思議なもので、
歩と尽と、もう一人のクラスメート紺野玉緒は、
一年後には、唯一無二と言える親友になっていた。
理由はわからないが、生意気そうに見えて実は気を使うタイプである
尽の持つ空気が、歩の苛立ちにひっかからなかったからかもしれない。
そしておっとり型の紺野玉緒は、いつも側で穏やかに笑っている。
余程のことが無い限り、怒声を上げるようなことはまずなかった。
そして二学期の終業式があった、12月下旬のある日。
歩、尽、玉緒の三人は、いつものようにランドセルを背負って
帰り道を歩いていた。
木枯らしが体にしみる。
母の編んでくれたピンクのマフラーの中に、歩はぎゅっと手を入れた。
「そういえば」
いきなり尽が話を切り出す。
「明後日だよな、高等部のクリスマスパーティ」
「あっ、そうだよね」
玉緒が言葉を返した。
「お姉ちゃん、今年も尽くんのお姉ちゃんと会場に行くつもりみたいだよ」
「ああ、うちの姉ちゃんも玉緒の姉ちゃんと一緒に行くって。
今年もドレス着るのかな」
「お姉ちゃん、尽くんのお姉ちゃんすっごく可愛かったって言ってたよ」
「でもさ、ヒールが高すぎて、
家に帰った後『足が痛い』って半泣きだったんだぜ」
「去年の」クリスマスパーティの話をしている二人を見て、
歩は何となく不機嫌になった。
話題についていけない。
去年のパーティーのことなんか知らない。
でも、それを表に出すのはもっと不愉快である。
しかし、勘のいい玉緒はすぐに彼女の様子を察知し、
話を振った。
「歩ちゃんは、去年のクリスマスはどうだった?」
「え」
玉緒の言葉に、歩はかすかに上を仰いだ。
「去年…」
「去年は…」
「去年は?」
玉緒は、人懐っこい笑みを彼女に向ける。
「去年は家族でクリスマスをして、
丸太のケーキを食べて、
お兄ちゃんがお子様シャンパンのフタを猛烈な勢いで開けたら
それがツリーにあたって、
てっぺんの星が壊れた」
「そ、そうなんだ…」
歩の言葉に対して、男子二人は薄い返事を返さずにはいられなかった。
それが妙にきまりが悪かったので、
兄の弁護をするつもりは毛頭ないが
彼女は必死で言葉を続ける。
「…っていうか、
クリスマスのメインはツリーでもお子様シャンパンでもないでしょ」
「へ?」
尽の言葉に対して、歩はキッパリと答えた。
「サンタ」
「…サンタ?」
きょとんとする二人を尻目に、歩はこう言い放つ。
「サ・ン・タ!!!
何言ってんの? クリスマスはサンタでしょ?
それとも二人とも去年は悪い子で、プレゼントもらえなかったの?」
しばらく言葉につまっていた様だが、
「そうだな、メインはサンタだよな」
と尽が笑った。
つられるように、玉緒も笑う。
「うん、サンタだよね」
「でしょ? サンタ以外の要素なんて、カレーのふくじんづけだよ」
歩は満足そうに笑うと、丁度家への曲がり角に差し掛かっていたので、
ひらひらと手を振りながら、
帰宅集団から離脱する。
「じゃあね!」
いつになく機嫌が良い歩の背後で、
尽と玉緒は意外そうに顔を見合わせる。
「…信じてるんだ…まだ…」
もちろん、この声が歩に聞こえるはずがなかった。
二人と別れた歩は、マンションの七階までエレベーターで上がり、
一番右側の自宅のドアを開ける。
「ただいま」
すると眼前に、緑スーツの兄がつっ立っていた。
どう見ても部屋着ではない。
「おっ! おかえり」
兄の胸元には、白いコサージュが咲いている。
いきなりの事態に、歩は唖然とした。
なんか、いる。
そして次の瞬間に彼女の口から出てくるのは、辛口のコメントである。
「…入学式?」
「え?」
妹のセリフに、兄は首をかしげた。
「何言ってんだよ! オレが今更、どこに入学すんだよ?
え、もしかして、モデルスクールからの案内状とかが来てんの?
やっべ〜な… 今はちょっと…」
「来てるわけないじゃん」
妹の冷静な言葉に、兄はシュンとする。
「ん… そ、そっか… まあいいや…
これは入学式じゃなくて、明後日のパーティ用。どうよ?」
「室内で着ないで欲しいんだけど 目に痛い」
「いいじゃん、減らねえんだし」
「うざい」
「お前なあ、兄に対してそれは無いだろ〜」
歩は履いていた靴を乱暴に脱ぎ捨てると、
「しょうがっこーのにゅうがくしきみたい!」
と言い残し、自室に入った。
そしてランドセルを放り投げ、
ベットへとダイブする。
歩と兄は、一発で兄弟とわかるほどに顔が似ている。
丸く大きな瞳と細めの眉毛、実は気持ちが顔にくるくる出るところ。
歩本人も、その自覚がある。
だからこそ、自分とそっくりな顔の人物が
イベントに向けて張り切りすぎて、
小学生スーツで家の中をウロチョロしているのが腹立たしい。
「お兄ちゃんのバカッ!!!
何で家でスーツ着てうろついてんのさ!」
歩はやや小声で怒鳴ると、そのまましばらくふて寝していた。
彼女の淡い夢の中では、サンタさんが「ほー ほー ほー」と言いながら、
歩に特大のどくろクマのぬいぐるみをくれた。
夢の中の歩はとても素直で、にこにこ笑ってサンタから
ぬいぐるみを受け取る。
「サンタさん、ありがとう」
歩ははにかみながら、お礼を言った。
昼寝から起きると、既に夕食の時間になっていた。
夢の余韻を引きずりつつも、歩はぽやーっとした幸福感に浸る。
今年はサンタさん、何を持ってきてくれるんだろう?
お兄ちゃんはいないかもしれないけど、
それ以外は、きっといつものクリスマス。
お父さんも早く帰ってくるし、ケーキとお子様シャンパンもある。
私が大人になるまでは、多分これが続くんだ。
「あゆみー ご飯よー」
母親の声にいざなわれ、歩は居間へ行く。
兄は突然、友達との約束が入ったとかで、
母と娘で、居間で寄せ鍋をつつくことになった。
日比谷家の食卓では、話をするのはもっぱら兄と母だ。
父はいつも、帰りが遅い。
歩は二人の話はあまり聞いていない。
彼女にとって重要なことは、目の前のご飯のみである。
兄がいないので、今日の夕食は母のオンステージである。
「でね、タコヤキの試食販売のバイトをやってるお兄ちゃんが、
すっごくかっこよかったの。
色黒で、背が高くて。
お母さんの初恋の人に、微妙に似ててねぇ
つい、3パック買っちゃった」
「あのさお母さん、
ところで、私の靴下はどこ?」
歩の言葉が、母ののトークを遮った。
「靴下?」
母がきょとんとする。
「靴下なら、タンスの三段目にあるでしょ」
「いや、それじゃなくて、サンタさんの靴下」
娘の言葉に、母は驚いたような顔をした。
「え?」
「いや、えじゃないでしょ。靴下」
狐につままれたような顔で、母はこう言った。
「歩はもう、しってるよね?」
「何を」
「サンタさんが、お父さんだって」
歩の中で、何かが崩れた。
嘘
母は、「え、まさか…」という顔で絶句する。
「あの、歩、もしかして」
その言葉に対し、彼女はほとんど反射的に、こう小さくつぶやく。
「知ってるよ」
「サンタなんて、本当はいないって事くらい」
「そう… もしかしたら、とんでもないこと言っちゃったのかと思って…」
母のフォローに対して、歩は薄く笑った。
「私は信じてなかったから良いけど、お兄ちゃんなんか、
ショック受けて大変だったでしょ」
彼女は内心の波乱を悟られたくなかった。
だから、矛先をその場にいない兄に向ける。
同時に歩の脳裏に、「サンタの夢想を崩されて、大泣きする渉くん」の姿が
しっかりと浮かんでいた。
しかし、母はさらっと言う。
「そうでも無かったよ」
「…え?」
「お兄ちゃん、あんたの年の頃は
もう既に、サンタの正体を知っていたみたいだし。
告白しても、『ふーん』って感じで。
あ、それでニコニコ笑ってたかなぁ」
「……」
歩は目の前のスープを一気に飲むと、
「ごちそうさま」
と小さくつぶやき、食器を台所に持っていく。
そんな歩の後姿を見て、母は明るく声をかけた。
「あ、歩。25日にデパート行こう。
25日ならお父さんもいけるし、お兄ちゃんも行くっていってるから。
そこでクリスマスプレゼント買ってあげる。
去年まではお父さんがサンタになっての間接渡しだったけど、
今年からは直買いしてあげるよ」
「いかない」
母のセリフに対し、歩は小さく答えた。
「え?」
驚く母に対して、歩は復唱する。
「いかないっ!」
歩はバタバタっと部屋に向かい、ドカッと自分のベットにつっぷした。
サンタはいない。
サンタは本当はいなかった。
私は信じてたのに、
親が私の夢を壊した。
サンタさんはもう来ない。
子どもの所には、みんな来るのに。
親が、私を勝手に「大人」にした。
去年までの、あれは何?
茶番?
腹が立って仕方がない。
そして私よりも子どもっぽい兄は、
私の年には、すでにサンタの正体を知っていた。
それも、どうしても許せない。
あのお兄ちゃんよりも、私の方がお子様なの?
布団をわしづかみにしながら
歩は考えた。
もう私は、子どもじゃない。
今年のクリスマスは、いつも通りのクリスマスじゃない。
お母さんが、私の思い出を壊した。
許せない。
そして突然、歩の中でこんな気持ちが生まれた。
こうなったら、大人の場所に行ってやろう。
高等部のクリスマスパーティに行ってやる。
これは、自分を勝手に「大人」にした母への反逆だった。
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