小さな光と長い影(前)


ある四月の日曜日の朝10時。
小坂菜央子は、自室のベッドの上で二度寝をしていた。
日曜日の二度寝は最高である。
これに昼寝がパックで付けば、もういう事はない。


今月二年生になったばかりの彼女は、
「名門」と呼ばれるはばたき学園野球部のマネージャーをしていた。

今年も四月の新歓シーズンに、多くの一年生がやってきた。

そして学年度初めの部員紹介の時、
彼女は同学年の選手達と一緒になって、
緊張顔で並ぶ一年生達を「わかいねー」などと言って笑った。
もちろん、その笑顔は歓迎の意味である。

しかしはばたき学園の練習は厳しく、脱落者も多く出る。
中学までの名選手でも、挫折してしまう人もいる。
その一方、根性や努力次第で、無名だった選手でも、
レギュラーになれるチャンスがあるのだ。
…と、監督は言っていた。


菜央子自身は、可愛い女子マネージャーが入ってくれたことで、
一緒に作業をする子が出来て嬉しいと思っていた。


先週の日曜は全体練習だった分、今週は寝ていたい。
しかしそう考える菜央子の横で、隣の部屋からは二つの話し声が続いている。
「…でさ…」
「え…本当ですか…」

隣は弟の部屋である。
弟の尽は、今年小学五年生。
口はませているが、本当は姉思いの優しい子である。
しかし、菜央子と同じように物事をきっぱりと口に出す性格なので、
よくケンカになることが多かった。
いや、はっきり言うと、一方的に菜央子が怒りだすだけなのだが…


隣の部屋から聞こえてくる声の一つは、間違いなく尽のものである。
だが、あと一つは誰だろう。
既に声変わりを終えた声ではあるが、かなり若い。
中学生くらいか。
父のものではありえない。
うちにこんな声の人はいないし、来るはずもない。

(…テレビ、かな)
勝手に結論をつけた菜央子は、目が覚めてしまったので、
起きることにした。
日差しがまぶしい。怠惰な幸福。

隣の部屋では、まだ声が続いているが、
気にせずに部屋の外に出ることにした。
髪を手でとかしながら、ドアノブをひねる。


菜央子の身体が部屋の外に出て、視線が弟の部屋のドアに移った途端、
「Tsukushi」とプレートのかかったドアが、
がちゃっと開いた。

「おはよ」という言葉が口先まで出かかっていた菜央子だが、
弟の部屋から出てきた人物を見た途端、驚きで動きがとまった。

それは尽では無く、野球部の後輩の日比谷渉だったのだ。

意外な人物がいきなり登場したことに、菜央子は思わず
「…は?」
と言ってしまった。

「こ、小坂先輩!?」
対する日比谷も、かなりびっくりしていたようだが、

「おはようございます!
 日比谷ッス!!」
と、普通に挨拶を返されてしまった。

「お、おはよ」
まだ呆然としている菜央子に対し、
「やっぱり尽くん、小坂先輩の弟さんだったんスね!
名字が同じだし、顔も似てるから、もしやと思ってたんス!」
と、日比谷は勝手に納得していた。


「…っていうか、日比谷くん、尽の知り合い?」
菜央子が何とか発した問いに、日比谷はハイ!と元気よく頷く。
「ジブン、尽くんの一番弟子ッス!」
小学生の弟子!?と言いそうになったが、彼女は何とか言葉を飲む。

…そういえば、昨日尽が「明日は、俺の一番弟子が来るからな」とか
言っていたような気がする。
雑誌を読んでいたので適当に聞き流していたのと、
尽の弟子なら、どうせ小学生の男の子だろうから気をつかう必要もないか
と思っていて、忘れていたのだ。

まさか、高校生が来るなんて、思いもよらなかった。
しかも、部活の後輩だとは。

私服の日比谷を見たのは初めてだと思う一方で、
菜央子は自分がパジャマだったことに気が付き、
思わず耳元がかーっとなってしまった。

朝起きたてで、髪はボサボサ、顔も洗わず。
考えうる限りの、みっともない姿だ。

どうしよう。


彼女は平静を失いつつも冷静に、
「まあ、ゆっくりしんしゃい」
という意味のわからない言葉を残して、早足で階段を下りていった。

洗面所で顔を洗いつつ、
彼女は日比谷のことを考える。
(日比谷くん、尽の知り合いだったんだ…)

日比谷渉は野球部の新入生の中でも、
その人懐っこさと努力家の部分で、特に目立つ部員であった。
身体は小さく、投げる球もまだ一年生のレベルを脱してはいないが、
朝早くから放課後遅くまで、一生懸命練習している。
それに、顔立ちから予想されるかのように賑やかな性格で、
一年の中では、いつの間にか中心的な存在になっていた。

素直で努力家で先輩を敬う、本当にいい子である。
その反面、葉月にむやみに憧れたり、守村のメガネに執拗に興味を示したりと、
訳のわからない行動も時々報告されていた。

まあ正直言って菜央子にとっては、彼が部活以外で何をしてようが、
余り興味は無い。
日比谷は大勢の一年生の中での、ちょっと目立つ子に過ぎない。

というか、こんなに彼について専念して考えるのは、おそらく初めてであろう。


顔を洗って歯を磨き、髪をとかして部屋に戻る。
着替えている途中でも
隣の部屋から、男の子の声が聞こえてきて落ち着かない。

もちろん、日比谷に非はないし、
(自分と尽の顔が似ていて、名字も同じなのに 姉弟だと気がつかなかったのは相当凄いが)
小学生の尽にも、悪気があるわけではないだろう。

しかし、こんな微妙な知り合いを家に呼ぶことに関しては、
正直勘弁して欲しかった。


何となく居心地が悪いので、どこか買い物にでも行こうかなと思ったその時、
隣の部屋のドアが開いて、二人分の足音がトテトテと階段を下りてゆく。

あっちの方が、どこかに行く事にしたようだ。
菜央子はほっとして、じゃあ図書館で借りた、返却期限がきれそうな本でも読むか!
と思った矢先に、再び足音が彼女の部屋に向かってきた。
落ち着いた音。
どうやら、母のようである。


母はドアをノックすると、菜央子に今から尽と一緒に出かけて欲しいという旨を伝えた。
は?と思ってきょとんとしている菜央子を尻目に、母は説明をする。

どうも、日比谷と尽はこれから映画を見に行くらしい。
もちろん尽にはお小遣いを渡すが、
日比谷に尽の面倒を全て見させるのは申し訳ないので、
菜央子にも付いていって欲しい、と言うのだ。

何で貴重な休日を、若者のために消費しなければいけないのかと
菜央子は口を尖らせたが、あんたどうせ暇でしょ?
という母の言葉に、何も言えなかった。

少し意外だったのは、母が日比谷のことを、
「あゆみちゃんのお兄ちゃん」と呼んでいたことである。
日比谷には妹がいて、それが尽の友人だと言うのだ。
初耳である。
そして、あゆみちゃんはお人形のように可愛い子であるらしい。

自分の知らないことを他の皆が知っていて、
何だか自分だけのけ者にされたような、幼稚な小不満を抱えつつも
菜央子は彼らと一緒に外出することになってしまった。



玄関で菜央子を見て、二人は意外そうな顔をする。
「あれ? 姉ちゃんも来んの?」
「小坂先輩もご一緒ッスか! よろしくお願いします」

「うん。まあよろしく」
別にデートでは無いけれども、妙に張り切った格好をしてしまったところに、
女心の悲しい性が出ている。



そして三人は、ぶらぶらと駅前の映画館に向かう。

見る映画は「Dr.チャピン」。
予想では余り面白くないと思っていたが、封切り後にかなり好評だったので、
見に行く事にしたらしい。
封切り自体は3月だったので、
流行に後れた、もっと早く行ってれは良かったと
映画館の座席で悔しがる二人を見ていると、
ポップコーンの種類をバターにしようか塩にしようか悩んでいた自分が、
何だか駄目な人間に思えてきた。

そして映画を見終わった後、
普通に面白かったねーと感想を話しつつ、
そのまま商店街に何となく向かって、買い物をする。
(尽にアイスをねだられたので、買ってやった)

周りは女の子向けの店が多かったので
自分の買い物に日比谷をつき合わせるのは、申し訳ないと彼女は思ったが
「女の人の好みを掴むのも、イイ男になる修行ッス!」
と素直に笑っている日比谷を見て、
いい子だなぁと思いつつ、商店街をのんびりと巡った。


途中でふと、ある店の前で足が止まる。
そこは、画材屋だった。
普段は余りこんな店に入ることは無いのだが、
この店の前を通った瞬間に、
学校で使っている絵の具が一色無くなっていたことを思い出したのだ。

店の中に入ると、まるで本の代わりに絵の具が置いてある古本屋のような、
しんとした、独特の雰囲気が三人を包み込む。
「へえ、こんな店もあるんだな」
画材屋に初めて入った尽は、純粋な好奇心から棚に釘付けになる。
「姉ちゃーん。色のついた粉が置いてあるよ。これでも原料は石なんだって」
へえ、面白いッスねーと、日比谷も色とりどりの粉末に見入っていた。

「こういう店だと、三原くんとかいきなり登場しそうだよね」
と菜央子が言うと、日比谷は目を丸くして驚いた。
「え、小坂先輩… 三原先輩とお知り合いなんですか?」
彼のびっくりぶりに逆に驚かされつつも、菜央子はうん、と頷いた。

「うん。友達だよ」

すると、日比谷はますます興奮する。
「凄いッス! 尊敬ッス…!
 あの人は、ジブンの憧れッス!
 どうやったら弟子になれますかね?」
「さあ… 彼は弟子系統に、興味が無さそうだから…」
菜央子は軽く笑うと、少し渋い顔をしていた店主の前に、
絵の具のチューブを持っていった。



後編
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