「のどかだねー」
各駅停車の向かいの席に座り、
つい一週間前まで残っていた猛暑も、九月に入ってめっきりとおさまった。
それから約二年半が経ち、
いても意識はしないが、いないと困る。
そして菜央子は、
だが、当の本人が、
そしてとうとう彼は、
いくら何でも、旅費を全部おごられる理由はないので(逆ならまだしも)
星が綺麗に見えて、そこそこ安くて、雰囲気のいい旅行先。
そして二人は、条件に合う場所を見つけるために、
はばたき市から電車で数時間の、
出かける直前に、尽に
よくわかっている。
そうこうしているうちに電車が目的地に着いた。
天気がいい。
そして少しひなびた観光地特有の、
二人はまず何故かみやげ物屋に直行し、
日比谷の趣味に付き合っているうちに、
大学で友人がストラップを付けていると、
帰りに土産として買うクマを仮決定し、
もう夕方だからだろうか、地元の高校生たちがたくさん歩いてくる。
「今の人、かっこよくない?」
菜央子は思う。
―通行人の何気ない言葉に、いちいちささいな自負心を覗かせる彼女も、
そして、濃い影を落とすアスファルトの道を歩いていく。
小さな旅館につくと、二人は「日比谷」の名でチェックインする。
その瞬間、従業員の人の顔が軽く笑いに歪んだ。
そしてぺたぺたと音がするビニールのスリッパを履くと、二人は廊下を渡って
「海老の間」
何故か魚介類名である。
「眠い。ごめん、少し寝る」
その様子を見た日比谷は、
「切ないんですけど…」
二人は目を閉じると、そのまま眠りの世界に行ってしまった。
着いた瞬間に昼寝である。
気分も大部すっきりした。
そして隣では、すーすーという寝息が聞こえている。
菜央子は隣の布団で寝ている彼氏の近くに寄ると、
寝てる。
特に菜央子は、身びいきでは無く、
かっこいい、んだろうと思う。
中学生気分の抜けていない、わけのわからない小僧が絡んできたと感じ、
でも、何だかんだいっても、彼女は彼の成長を、ずっと見てきていたのだ。
近頃の彼は、あまり自分のネガティブな話題は話さないが、
「この四年半で、随分大きくなったよね、渉は」
本人に直接言うと、調子に乗るから
彼女は、もしかして日比谷が起きているのでは…という心配をしたが、
天気予報の地図が違うことに、おおーと地味な驚きを感じたりしながら、
そのうちに、日比谷も起きる。
「…ふぁ〜…」
「よっ」
「すみません、オレ、ちょっと出かけてくるッス。
予期せぬ彼の言葉に、彼女はびっくりするが、
「あ、ちょっとスミマセン、それも言えないッス。 ジブン、一人で探したいんです…」
もっと予期せぬような日比谷の返答に、菜央子は内心むっとした。
自分では意識していなかったが、
彼氏の反応は、やはり違った。
日比谷は菜央子の頭にポンと手を置くと、
戦略を使ったわけじゃない。
彼女は赤くなって、ぷいっと横を向く。
「うっさい、ばか。早く行け」
日比谷は、彼女の頭をさらにちょっとなでた後、
「………」
ありえない
ああもう、完全に抜かれた
しばらくしてから、転がるだけの活動の非生産性を実感したが
菜央子は今年大学三年生であり、
回りの友人からは「永久就職でいいじゃん」
渉がいなくても、自分の足で生きる人間になりたい。
日比谷は「いい肩を持った投手」として、大学の野球部でも注目をされてはいたが、
つまり、彼は、もてる。
彼がプロ野球入りしたら、同じ人間とは思えないような
何だかもやもやした気持ちを抱えながら、
いつかはさよならも、ありうる。
菜央子は数分地味にもの思いにふけった後、
本格的に遊ぶのは、元々明日からの予定である。
地元の水族館にいって、その後、湖とかでボートに乗ってみようと思う。
このあたりは歴史的な街並みも多いから、
彼女が時間をつぶしているうちに、
「菜央子さん、すみません! はい、アイス!」
「あ、アイス。美味しそうだね。ありがと」
そして聞いた。
「でも、大事な彼女を長時間ほっとくなんて、できないんで、
2007年9月3日。
大学の夏休みであることを利用して、
小坂菜央子と日比谷渉は、近場の高原に、一泊旅行に行く事にした。
「本当ッスね」
駅弁を食べながら、窓の向こうの風景を見る。
日比谷は半袖だが、
菜央子は「寒い」という理由で、薄手のカーディガンを着ている。
彼らが付き合い始めたのは、
菜央子の卒業式の、日比谷のあの告白からである。
ある意味、お互いがお互いの日常の一部になってしまっている。
今年日比谷が20歳になることをもちろん知ってはいたが、
だからってそんなに遠くに旅行に行く必要もないし、
日常を送っているはばたき市で、
ひっそりまったりと、でも二人で誕生日を過ごせればそれでいい。
そう思っていた。
旅行に行くことを強く要求したのである。
彼にはとにかく、譲れない何かがあるようだ。
そしてひたすら、「星が綺麗なところ」というキーワードを頻出させる。
菜央子が「何で星にそんなにこだわるの?」と聞いても、
その理由は教えてくれなかった。
「とにかくどこか行きましょう! 旅費はオレが全部負担するんで」
とまで言い出したのである。
「じゃあ普通に旅行に行こうよ」
と菜央子は快諾した。
日比谷の部活の関係もあるので、あまり長期では行けない。
せいぜい、二泊三日くらいが良い所だろう。
インターネットで検索をしたり、
近所の本屋で旅行雑誌を見たりして、
その結果、無事目的地も決まった。
小さな高原地帯である。
「何かお土産欲しいもんある?」
と聞いた所、
「どうせ変なペナントか、変な顔Tシャツだろうからいらない」と、
あっさり断わられた。
電車の旅というのは、基本的に暇なものであるが、
二人でぼんやり外を眺めていたり、時々ぽろっと会話をしたりして、
いつものように時間をやり過ごす。
はばたき市を出た頃には曇っていた空も、
こっちで見上げたときは、
見事な水色になっていた。
妙に色とりどりののぼりを掲げた、駅回りの土産店。
ご当地どくろクマちゃんを物色する。
菜央子もどくろクマについての知識は玄人なみになってしまった。
いちいち「みせてー」と言うので、
友人間の間では、すっかり「クマ好きな人」で通っている。
二人は歩いて旅館に向かった。
大きなバッグを抱えた二人の姿は、一見して観光客だとわかるようで、
時折ちらっとこっちを見てくる高校生もいた。
と背後から聞こえる女子高生の声を、だまって菜央子は受け止める。
こんな反応も、もう、結構慣れた。
確かにこの人は、昔よりも背もかなり伸びたし、目はぱっちりだし、
髪の毛はさらさらだけど、
時々、すごい馬鹿だよ?
イイ男になるっていうのが口癖で、プライドが高くて、
そのせいでよく落ち込むのを、なぐさめなきゃいけないんだよ?
ある意味かなり大人気ない。
あたりの木々に止まったセミが、ミンミンと鳴いていた。
この旅館は、日比谷が選んだ。
小さな民宿だが、日本庭園がついていて、結構良い感じだ。
旅館の従業員が「日比谷様ですね。二名様…と」
と言ってノートに記入をすると、
「な、なんか夫婦っぽいッスね…」
と、日比谷が小声でささやいた。
多分、バカップルだと思われたんだろう。
菜央子にとっては、何となく屈辱的だ。
泊まる予定の部屋に向かった。
ガラッと部屋のふすまを開けると、
小さな和室に大きな窓、お膳の上にはお茶とお菓子。
それを見て、ようやく一息つけることに疲れがどっと出たのか、
菜央子の気が一気に緩む。
「あ〜… 何か眠くなってきた…」
彼女は荷物を部屋の隅に置くと、
少しぼんやりした様子で、畳の上に座る。
それを聞き、日比谷は
「あ、寝るんスか?」
と問いかけた。
菜央子はそう言うと、奥の寝室に行き、
押入れからささっと敷き布団を取り出して、
ころんと横になる。
「じゃあオレもちょっと寝ます。隣、いいッスか?」
と言って菜央子の隣に行こうとしたが、
「暑苦しいから、別の布団に寝て」
という、素直すぎる菜央子の言葉を受け
ややしょんぼりして押入れから布団を取り出した。
「だってあついでしょ、まだほとんど夏なのに。犬とかさ、近くで寝られたら、めっちゃ熱いじゃん」
「オレ、犬じゃないッス…」
「別にいいじゃん」
菜央子は、眠さのために妙に機嫌が悪くなっていた。
なんとも気の抜けたカップルだ。
そして数分後、菜央子は目を覚ます。
壁にかかった年代物の時計を見ると、さっきから約30分ほど経過していた。
外を見ると、既に夕焼けの色である。
彼女の昼寝は終了だ。
日比谷は寝つきが良く、
一回寝たら、多分二時間は起きない。
その顔を、じっと覗き込んだ。
付き合っているとはいえ、人の顔をずっと見つめるのは、
なんだか気恥ずかしいものである。
年を重ねるにつれて、大人の顔へと変貌してゆく自身の彼氏に対し、
未だに、妙な照れから脱却できない時があるのだ。
見詰め合うと、正直緊張する。
端整な顔、とも言えなくもない、ような気もする。
でも、初めて会ったときは、
言い方は失礼だが、何この子? と思った。
あんまり葉月くんに迷惑かけるなよ、程度の感想しか抱かなかった。
帰り道で部活でデートで。
途切れ途切れではあるが、菜央子は日比谷のことを、ずっと見ていた。
特に、付き合ってからのこの二年半は。
そして彼女の立ち位置は、下校中の1mくらいの距離から、
一緒に出かける時の、30cmくらいの距離へと縮まった。
そして彼は、彼女を置いて大きくなった。
背はあっという間に彼女が見上げるくらいになり、
今や二人が並んでいても、誰も姉弟だとは思わないだろう。
あれもこれもどれもそれも、という風に人を追うことはしなくなり、
一本ぴーんと、男としての筋が通ったような印象を受けた。
つまり、イイ男になったと。
日比谷の癖の無い、実は整った顔立ちを見て、
菜央子は小声でこうつぶやいた。
絶対に言わないが。
もしそうなら、彼は速攻で起き上がり、
菜央子さん、今何て言ったんスか? もう一回言ってください!!
とせまってくるに決まってるから、
きっと本当に寝てるのだろう。
菜央子は寝ている彼氏を放置して、
テレビのチャンネルをひねった。
何となく、部屋を出る気にはなれない。
彼女は夕方の時間を浪費した。
彼は軽くのびをすると、目をこすった。
「…よく寝た…」
菜央子が日比谷に挨拶すると、彼も
「おはよッス」
と返す。
そしてそのまま部屋を出て、廊下の洗面所で顔をあらった後、戻ってくるなりこう言った。
探したいものが、あるんです」
「え?」
すぐにこう返した。
「何を探すの?じゃあ、私も行く」
ちょっと、あんた、今、旅行中
しかもあんたの誕生日祝いできた旅行じゃねえのよさ
「…ふーん」
「スミマセン、どうしてもちょっと、これだけは。
明日は、ずっと一緒にいるから。」
「……」
菜央子は、かなりすねた顔をしていたらしい。
これで相手が尽だと、
「ひでっ!! ハリセンボンみてぇ」
と笑いものになるのだが、
いいこいいこ、という感じになでる。
「ごめん。でも菜央子さん、すねてるところも可愛いッス」
無意識であっても、女の武器である「すね顔」を駆使してしまったことに、
菜央子は妙な気恥ずかしさを感じた。
可愛いとか、言わなくていい。
「じゃ、できるだけ早く帰ってくるッス!!!」
と言って、部屋を出て行った。
先輩と後輩というかつての立場が完全に瓦解したことを痛感し、
菜央子は畳の上を無駄にごろごろ転がっていた。
しれでも彼女はそのまま床に寝そべる。
そして、つぶやいた。
「渉がもう、20歳かぁ…」
別に天井に話しかけても何も返ってこないが、
何となく、一つの伏目を越えたな感が菜央子の中にあった。
先に自分はもう成人してしまったし、
これからは、いよいよ「大人」としての人生を歩んで行く事になるのだろう。
もう、いろいろと責任がかぶさる時期に、なったのだ。
そろそろ就職活動について考えなければならなかった。
と半ば本気で言われるが、
日比谷に甘えるだけの人生は、菜央子にとっては嫌だった。
もちろん、別れ話などはまったく出てはいないが、
人間、いつどうなるかわかならい。
それにかぶさって生きるようなことは、彼女の望むことではない。
今でも、新入生の女の子が時々日比谷に告白しては、
「彼女がいるから」と言われて去ってゆく…という話を人づてに聞く。
ついでにいうと、別に自分はもてない。
すごい美人の女子アナが、彼にアプローチをしてくるのかもしれない。
女子アナは野球選手が好きである、という偏見が、菜央子の中に根付いていた。
菜央子は左手の指輪をいじっていた。
というか、人の気持ちに永遠はない。
私は将来、どんな大人になるんだろう?
25になったら、何をするのか。
30になったら、何をしてるのか。
カバンから現地のガイドブックを取り出した。
ぶらぶら散歩をするのも良いかもしれない。
日比谷が帰ってきた。
彼は部屋に入るなりぺこっと頭を下げると、
袋に入ったみかんアイスを差し出した。
菜央子は笑ってそれを受け取る。
「思ったより早かったね。何を探しに行ってたの?」
「それは、夜のお楽しみッス」
―やはりぼかされた。
目的達成して、速攻で帰ってきました!」
「はいはい」
菜央子は軽く聞き流すが、
心の中で、アイスおいしいありがとうと、日比谷に深く感謝した。