←Hurry5
12
起きて部屋の窓を開けると、悠久のごとき青空が広がっていた。
太郎くんとわかりあえたあの日から一週間後。
この世の全てが私にとって、誠に素晴らしいものに思えていた。
お日様も花も笑顔をたたえており、
校庭のにのきん像ですら好意的なオーラを発している。
更に食欲が戻り、全体的に健康になった。
苦痛が長かった分、そのご褒美は最強であったのだ。
―今日は太郎くんとのやり直しデート。
午前中から森林公園に行く。
世間一般の、付き合い始めたカップルみたいなことがようやくできる。
いちゃつこうとして恥じらったり、お互いを語り合うのだ。
そして帰りには、正式に付き合って下さい宣言がくるのだろう。
私は実にめでたい脳内チャートを描きながら、
大好きな白いスカートを履く。
明日学校に行ったら、今までのことをはるひやひーちゃんに言って
私が幸せになったことを伝えよう。
志波くんやハリーには…
そこで一瞬、うかれポンチが覚める。
ハリーには、会ったら言おう。
志波くんには、言う時が来たら言おう。
何故かは知らないが、彼らに対しては背徳感を感じた。
特に志波くんに対しては。
夏の甲士園の予選は既に始まっており、
はね学は順調に勝ち進んでいた。
学校中が新生はね学に期待していたが、
野球部に近寄る資格の無い私は、
その話題を聞いても、うつむき自分の爪を見るだけだった。
私は卒業まで永遠に、野球部に対して謝罪を続けることだろう。
―駄目だ、ひきずる
強引に、気分のスイッチを「幸福」に切り替えた。
森林公園の門の前で、太郎くんは既に待っていた。
時計を見ると、約束の10分前である。
この人が約束前に来るなんて、今までなかったことなのに―
嬉しくって仕方が無い。
太郎くんは、変わったんだ。
私の姿を見つけると、太郎くんは優しい笑顔で手を振った。
「やあ」
「おはよう」
私はまさに「彼女の顔」で笑う。
太郎くんは抵抗してこない。
やった。私はやった。
とうとうここまで来た。
「本当はね、朝早く目が覚めちゃって、それで早くにここに来たんだ」
「私も」と言いかけると、横から軽い感じの声が飛んできた。
「よおっ! 色男!」
―声の方向を向くと、どこかで見た感じのチャラチャラした若い男が立っていた。
誰だっけ…と思考を探ると、その正体が浮かび上がる。
あれだ、セクシーで失敗したデートの時に、私をジロジロ見ていた奴だ。
あの時は怖くて震えていたが、今はもう怖くない。
だって私には太郎くんが―
そう思って太郎くんの顔を見ると、彼は彫刻のように固まっていた。
メドゥーサの犠牲者のような、目を見開いた形相で。
チャラいナンパ男はそれをものともせずに、私たちに近寄った。
そして小馬鹿にしたように笑う。
「あれ? 新しい女かと思ったら、この前の子じゃね?
どういうこと?」
太郎くんの目が険しくなる。
が、それと同時に彼は男から目をそらした。
「…頼む。放っておいてくれ」
彼はそういうと、男から私をかばうように立つ位置を変える。
私には意味がわからない。
ナンパ男は私を舐めるように見ると、大声で言った。
「なあ、この子、もう俺のなんだよな?
飽きたから俺にくれるって、この前言ってたじゃん!?」
バキバキバキバキと、何かが物凄い音を立てて割れた。
胸にぽっかり穴が空く。
やっとふさがったと思ったら、また再発しやがった。
埋めなきゃ、はやく穴を埋めなきゃ。
私は聞く。
「……太郎くん、嘘…だよね?」
「…嘘だって言えるなら、どんなに良いか…」
これが彼の返事だった。
「でも、僕は今はもう―」
太郎くんのすがるような声は、ナンパ男の嘲笑でかき消される。
「ははっ!簡単な話だよ。
俺はお嬢ちゃんをナンパしろって、この前このイケメンに頼まれたっつーワケ。
ひどいよな? 鬼だよな?
まあ途中で気が変わったのか、コイツに邪魔されたんだけどな!」
唇が震えた。
歯がカチカチ音を立てるだけで、言葉が出ない。
「飽きたらあげるって凄いよな〜! そこにシビれる!あこがれるゥ!
お嬢ちゃん、こういうワルに引っかかっちゃ駄目だよ?
あー スーッとした!」
ナンパ男はゲラゲラ笑いながら、姿を消した。
後に残るは、灰と化した私たちのみ―
私の口は、自嘲の形を作る。
言葉が自然に出てきた。
「…散々人を振り回して、行きつく先はゴミ捨て場?
…ひどすぎるよ」
「違うよ、お願いだから信じてくれ」
口先で信じろという人間に、信ずるに値する奴はいない。
「もう…いいよ…」
私は穏やかに微笑むと
行かないでくれと懇願する太郎くんを強引に振りほどいて
適当に家まで帰った。
帰宅中の記憶は無い。
ただただ、空の青さが馬鹿にされているようで不愉快だった。
家には、幸い誰もいなかった。
服を普段着に変えた。
太郎くんの思い出のものを始末しようと思ったが、
始末するものすらないことに気がつき、腹の底から爆笑した。
余りのクレイジーっぷりに
遊くんが飛んでくるかと心配になったが、
一家でお出かけなのか、お隣のカーテンは閉まったままだ。
もういい。
誰にも我慢なんかするものか。
私は顔をベッドに押しつけて、めちゃくちゃに泣いた。
馬鹿だ馬鹿だ、私は馬鹿だ。
最初っからあの馬鹿ギリシャに遊ばれていただけだったんだ。
それをいい気にホイホイなって、舞い上がって本当に馬鹿だ。
道化だ。救いようが無い。
あんなゴミみたいな男のために、大切なものを全部捨ててしまった。
野球部、友達、バイト…
太郎くんの寂しそうな顔も、泣きそうな顔も、最後に海に行った時のあの顔も、
全部全部嘘だったんだ。
このままシナリオが進行していれば、
いずれナンパ男の慰み者になっていたんだろう。
己の余りの芯の無さに絶望した私は、
もう真嶋太郎にかかわらないことを決めた。
普通だ。普通になろう。
友達の輪に戻って、女子高生を謳歌しよう。
アルカードはいい人ばかりだし、
あの下劣な男ももう来ないだろうから、もうしばらくバイトは続けよう。
それで大学生になったら、アンネリーに戻ろう。
店長もひきとめてくれたし、多分戻ることは可能だろう。
ハリーには、自分がいかに馬鹿だったかを告白して謝ろう。
そして願わくば、友達に戻れればいい。
志波くんには、野球部には―
もはや何のすべも無かった。
私なんぞ、顔を出すのも厚かましい。
野球部の思い出が頭をよぎると、私はもはや耐えがたくなった。
野球のいろはも知らない初心者だったけど、
一年の時からずっと続けていた部活だった。
全然強豪じゃなかったけど、野球を楽しめればいいというモットーでやってきた。
でも、本当は勝ちあがりたかった。無理だって思ってただけで。
そこに志波くんが来て、はじめて皆が大それた野心を素直に出した。
皆が地道にそっと水をやっていた花がつぼみを付け、
ようやく咲きかけているというのに―
私は髪をかきむしり、悔しさに顔を歪める。
もう駄目だ。
私は自分から野球部を去った。
人生の選択を間違えたのだ。
もう戻れない。
野球部に戻って、皆と甲士園に行く。
―夢だったのに、夢だったのに。
私は二年以上抱いていた夢を、下らぬ男のために捨てたのだ。
自分が100%悪いゆえに、私は自らへの絶望に身悶えた。
ひとしきり泣くと、机の上にあったガラスの灯台型ランプに目が移る。
二年生の11月に、太郎くんに買ってもらったものだ。
あの時はまだ、何も失ってはいなかった。
思えば、太郎くんが私にくれたもので形があるものは、これだけだった。
携帯の番号もアドレスもしらなきゃプリクラもない。
本当に笑ってしまう。
不愉快なので捨ててやろうかと思ったが、ランプに罪は無いので
人魚伝説にふさわしい人に今後会ったら譲ろうと思い、
箱に閉まって押し入れの中に入れた。
こうして私は、強引に自分の世界から真嶋太郎を締め出したのだ。
一週間後の日曜日。
私がアンネリーでバイトをしていると、
店のドアがチリンと鳴った。
反射的に
「いらっしゃいませー」
と言い終わり、顔が凍る。
太郎くんだった。
彼は今にも崩れそうな、かなしい、かなしい顔をしていた。
店の人たちには真実は話してなかったが、
私と太郎くんの間に何かあったらしい…と薄々気づいていたので、
空気が容赦なく凍る。
ざわざわと声が聞こえる。
でも、こんなのはいい。
芥は捨てねば。
目の前から消さないと。
「…みっともないのはわかってる。でも…」
太郎くんがこう言いかけた瞬間に
私は彼の近くに寄り、耳元でささやいた。
「何言ってんの? ただのゲームでしょ」
作り笑顔さえ浮かぶ。
私はもう、彼に一切の慈悲を与えない。
知らない。真嶋太郎がどうなっても私は知らない。
いなくなれ
その時。
店のドアがガシーン!と開き、予期せぬ人物が入ってきた。
→Hurry6
デイジー太郎修羅の陣です。
2010.3.10
back