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Hurry_6
夏休みに入った途端に梅雨明けが発表され、
はばたき市は夏の熱気につつまれた。
アスファルトの道路が太陽にジリジリと焼かれ
あちこちからセミの声が耳に入りだす。
そして今日は、その熱気が最高潮に達する日―
甲士園地区予選の決勝が行われるのだ。
そのカードは、はば学対はね学。
決勝会場である運動公園の野球グラウンドは、地域の人々で賑わっていた。
甲士園の常連はば学か。
それとも、飛ぶ鳥を落とす勢いで絶好調のはね学か。
両校とも地元はばたき市の学校ということもあり、
地域の人々の注目度も高かった。
必然、普段野球に興味のない人間でも、勝負の行く末を見つめたくなる所である。
…本日の針谷のように。
針谷ははね学側の応援席に座り、試合の流れを静かに見守っていた。
何気に肌が弱いせいで、すぐに日に赤く焼けてしまう。
それゆえ夏の日差しは好きではないが、
この試合は太陽の下で、直接この目で見たかった。
針谷の隣では、二名の人物が歓声を上げている。
「やった! ヒットで二塁や! これで次の人が打ったら一点入るかもしれんで!」
「ややっ! みんな頑張ってください!」
―西本はるひと、若王子である。
針谷は本日、はるひと一緒に運動公園に来た。
一人で野球観戦という上級者モードに、彼が挑み切れなかったせいである。
若王子とは、公園の入り口で偶然会った。
そして二人にくっついてきて、針谷の隣席を陣取ってしまったのだ。
針谷の見る限りでは、二人は楽しそうに応援に熱中していた。
針谷は若王子につめより、問う。
「オイ、若王子」
「なんですか?」
「なんでここにいんだ?」
「ここの席が良く見えそうだったからです」
若王子は笑顔でしれっと答えた。
流石、ちゃっかりと同行してくる能力は伊達ではない。
いつもは第三者が入ってくると、なぜか曇るはるひの顔も
今日は晴れ晴れとしていた。
「なあ、ハリー! 若ちゃんっ!! 二点リードやでっ!」
―その理由としては、試合展開が最大の要因だろう。
彼女は嬉しそうに叫ぶ。
「さっきのヒットは結局点にはならんかったけど、
6回裏が終わったから、あと3回ではね学の勝ちや!」
そうなのだ。
大方の予想に反し、はね学が逃げ切っている。
投手戦になるかと思われたが、序盤から双方が良く打ち、
現在6-4。
王者はば学が6回までに6失点も許しているのは、今年の予選では初めてだった。
そのうちの2点は、4回裏の志波のヒットでの押し出しだった。
マウンド上で投げる吉冨の姿はしなやかで、
フォームの美しさは野球に詳しくない針谷でも、おおっと思わずにはいられない。
だが、打たれている―
絶対的王者が、下から這い上がってきたはね学打線を浴びていた。
「ブイ・アイ・シー・ティー・オアールアイ!!」
グラウンドにより近い席を陣取っているはね学応援席付近は、
奇跡の勝利に向けて一体となっていた。
「はね学のー!勝利を祈ってーっ!!
エイ! オス!!」
後輩の天地翔太が所属する学ラン部隊の大声と、
チア部隊の手拍子やダンスが上手い具合に空気を盛り上げている。
対してはば学側スタンドでは、
当然のごとく観客は窮した色を浮かべていた。
はば学のチアガール達はポンポンを振り、
吹奏楽部は力強い音を響かせ選手を鼓舞する。
が、観客の動揺は明らかであった。
そんなスタンドの不安など知りもしないかのように、
はば学の老監督はベンチで座り続けていた。
彼がはば学を取り仕切って、もう10年にもなるという。
針谷は再び、向こう側のはば学応援席に視線を戻した。
やはり、いた。
はば学ゴールデンコンビの名を冠した
島田敦と日比谷渉の二人組が、
小さくではあるが針谷の視界に映っている。
注目の決勝試合であるといっても、地区予選であり、
相手側のスタンドから人を見つけることも不可能ではなかった。
初めて見る生の島田は「知牛」というあだ名にふさわしく、
静かに、しかし心持ち重めな雰囲気でマウンドを見つめていた。
目をこらすと、ゴールデンコンビの隣には
昨年甲士園で投げた鈴木。
更に一年先輩の、モデル並みの美青年である鯉川の姿があった。
(針谷のはば学知識は、大半が美奈子と志波の受け売りである)
その隣には、いかにも「野球やってます」というようなガタイの良い面々がずらずらと並んでいる。
OB連中総応援か―
針谷は麦茶を飲みつつ、自軍のベンチからグラウンドに出てくる志波の長身を見つめた。
彼はバットをグローブに持ち替えていた。
いよいよ終盤に入った七回、はば学側の攻撃だ。
志波は三塁に付くと、
グローブをはめた手で、はめてない方の手を包み込んだ。
そこで数度、ポムポムと手を動かす。
志波が、野球をしている。
この場で感じるようなことではないが、
それは明らかな事実であった。
針谷は思う。
一年時、自分と出会った頃の志波はぶっきらぼうで愛想が無く、
例えそこを通る必要があったとしても、
野球部のグラウンドに近寄ろうともしない奴だった。
その志波が、甲子園を目指してグラウンドに立っている。
針谷は自分の歌に絶望することはあったが、
音楽を捨てたいと思ったことはなかった。
捨てるなど、考えたこともない。
一度は自ら退いた道に再び足を踏み入れて
日の当たる場所に立つことは、一体どんな気持ちなのだろう。
遥か遠方の友人の姿を見ながら針谷が物思いにふけっていると、
上から声がかかった。
「おっ! 若王子じゃねぇか」
長身と逆光のせいで顔が見えなかったが、その声には聞き覚えがあった。
美奈子のバイト先の先輩、真咲元春である。
真咲は「ここ、空いてっか?」と針谷に聞き、彼が頷くのを確認して隣に座った。
座り順でいうと、右からはるひ、若王子、針谷、真咲という感じである。
以前、針谷は真咲に、祖母が日舞で使う花を選んでもらった。
それを抜きにしても、美奈子つながり的な意味でも知り合いだった。
「この前は、花選んでくれて、ありがとうございました」
「おばあさん、どうだった?」
「喜んでました。センス最高だって」
「よし! オレ二重マル!」
「10日ぶりですね、真咲くん」
若王子ののほほんとした笑顔に、真咲も笑う。
「いやー、その節は頭脳アメをどーも」
「なんやソレ! 若ちゃん…ええんかい、そんなんあげて」
二人の会話にはるひが乗っかった。
「先輩、志波の応援ですか?」
随分野暮なことを聞くと我ながら思うが、針谷は口を開いた。
「おう」
予想通りの答えを真咲は返し、グラウンドを見る。
「ようやく、帰ってきたって感じだな」
真咲の声には、離れて暮らしていた弟の成長を確認する兄のような響きがあった。
「それに、はね学卒業生としてはこの日を見逃すわけにはいかねぇし。
ちなみにバイト先のはば学出身の先輩は、あっちで観戦中だ」
「あの眼鏡のべっぴんなお姉さんですか?
あの人、そんなキャラやったんやなぁ。意外やわ」
―はるひの情報収集力は凄まじい。
しばらく四人で試合の行方を追う。
七回表はば学の攻撃は、三者凡退に終わった。
攻守を切り替える選手たちを見て、真咲は感慨深そうにつぶやいた。
「…強くなったな、はね学は。本っ当に強くなった」
その言葉を聞いた針谷の中で、何かが持ち上がる。
―強くなった。
「強くした」のは、一体誰か
「ほんなら昔は、あんま強くなかったんですか?」
「どこにでもある野球部だったなぁ。少なくとも俺の時代は。
はば学と互角に戦うなんて、考えてもなかったなー」
真咲とはるひの会話を聞いた瞬間に
針谷は息を飲んだ。
―伝えたかった。
この声援を、小野美奈子に届けてやりたい。
彼女自身は何も残さなかったが、彼女の努力は大きな実を結んだ。
このグラウンドは、針谷にとって、見過ごすには大きすぎる場所だった。
「…ハリー?」
横からのはるひの声に、針谷は我に返る。
「…オ、オゥ。すまねぇな」
「なんやねん。
もうすぐはね学の歴史が更新されるかもしれんのに」
はるひは口をとがらせた。
7回裏が始まり、はね学の一人がヒットを打つ。
ノーアウト二塁。いける。
そう思った時、針谷の頭斜め上の方でスピーカーが響いた。
『ここで、ピッチャーの交代を発表いたします。
吉冨くんに変わり、3年、大崎くん』
―交代?
針谷は前のめりになり、グラウンドを見つめる。
吉冨の顔は帽子の影に隠れて見えなかったが
その全身からは、異様な程の焦燥と絶望感が伝わってきた。
老監督と交代ピッチャーがグラウンドに出てくるが、
吉冨は動かない。
三人で何かしきりに話しているようだが、
その内容は無論聞こえなかった。
急な展開に眉をひそめる針谷の横で、若王子が小さく言う。
「彼は、寝ていませんね」
針谷は耳を疑った。
寝ていない?
そんな馬鹿な。自殺行為も甚だしい。
「若王子の瞬間分析か」
「はい、動きを見ればわかります。彼はきっと、一睡もしていない」
真咲と若王子のやりとりを聞き、針谷の背が急に凍えた。
眠れなかったんだ。
緊張のあまり、寝ることすら出来なかった。
その瞬間、針谷の脳内視界が急に変化した。
若王子達も観客もマウンドすら消え、真っ暗な背景に吉冨の姿のみが浮かぶ。
極度の緊張に晒され続け
今にも切れそうな糸を、必死につないで投げ続けた天才。
プレッシャーとの孤独な戦いでボロボロになったその姿が、
ステージ上の自分と重なった。
頑張ったのに―
練習したのに―
本番でさえ、なかったら。
黒い魔手が地面から生えてきて、頭から押さえつけられるようなあの感覚。
境遇の違い等を全てを削りとった後
針谷は思う。
俺と吉冨、同じじゃねぇか―
10年に一人の天才は、同時にまったくの高校生であった。
マウンド上はまだもめていたが、
やがて監督が吉冨の手を強引に引っ張り、彼をベンチへと連れて行った。
吉冨は消えた。
最後まで、その表情を見せぬままに。
投手を変えたものの、はね学優位の流れは変わらなかった。
その後はね学が一点入れ、9回表が終了する。
最後のはば学バッターが打ち取れらた瞬間に、はね学スタンドで大歓声が起こった。
それを縫うように、
ウゥ〜というサイレンの音と
『試合を終了します。
7-4で、羽ヶ崎学園の勝利となりました』
というアナウンスが流れる。
「やったーッ!! 甲士園出場やで!」
はるひが嬉しそうに大声をあげた。
若王子も満足げに拍手をする。
対するはば学側スタンドは、沈痛な面持ちであった。
が、負けを受け入れたのか、両校の健闘をたたえる拍手の音が響く。
やがて両校選手がグラウンドに出てきて、がっちりと握手を交わした。
あちこちから
「志波―!!」
「よくやった!」
「甲士園もこの勢いで行って来い!!」
という声援が飛ぶ。
回りの面々も皆大喜びしていたが、針谷の内心は何故かしっくりと来なかった。
その理由は、もう言うまでも無い。
その時―
握手を終え、ベンチへと帰る途中の志波と目が合った。
志波は針谷を見ると、ニヤッと笑う。
「勝ったぞ」とでも言わんばかりの、彼なりの笑顔であった。
その笑顔を見て、反射的に針谷は席を立った。
そうだ、俺には俺の役割がある。
志波はやったんだ。
じゃあ俺も―
つうか、俺がやんねぇで誰がやる?
針谷は周囲の面々に「わりぃ、ちょっと俺、用できた」と断り
公園出口へと向かった。
「ハ…ハリーッ!?」
はるひの叫び声が聞こえたが、答える余裕は今の針谷には無い。
彼は脱兎のごとく走っていく。
猛暑の中、けっこうな距離を走って既にクタクタになったが、
公園出口を出た針谷は、そのまま駐輪場へと向かった。
自転車の鍵を外し、一気に道路へとこぎ出す。
向かう先はただ一つ。
喫茶アルカード
走っている途中、何がなんやらわからないが、
とにかく針谷は自分が風になったような雰囲気を感じていた。
夏の太陽の下で、びゅんびゅん。びゅんびゅん。
全速でペダルをこいでいく。
はね学が甲士園に出る!!
やったぜ、美奈子!
あらゆる風景が、針谷の横をなめらかに駆け抜けていった。
大分自転車をこぎ、やっと喫茶アルカードについた。
かなり息切れしているが、ひとまずは美奈子に会おう―
美奈子がここでバイトをしていることに関しては
知らないふりをしているはずだったが、
軽い興奮状態になっていた針谷にとっては、そんなことはもはや畳の上の糸である。
自転車を止め、針谷は喫茶アルカードの扉を開ける。
美奈子はどんな顔をするだろうか?
飛びはねて喜ぶか、それとも噛みしめるように喜ぶか―
そう思いながら店に入った針谷の視界には、信じられない光景があった。
制服を着た小野美奈子が、冷徹そのものの笑顔で
真嶋太郎を見つめていた。
笑顔だったが目は笑っておらず、
その口元には徹底的に相手を斬ってやろうという、ある種の殺意さえ見える。
対する真嶋は呆然としており、
目には一切の光がなかった。
つつけば今にも倒れそうである。
己の高揚感と場の空気の余りのギャップに、針谷は凍りつく。
…何だ、コレ
そんな針谷を見て、美奈子はヒュッと普段の美奈子に戻った。
だが、彼女の目には困惑の色がある。
「ハリー…?」
「オ…オッス」
針谷が戸惑いながら手を上げると
真嶋が横を通り過ぎ、そのまま店を出て行った。
→13
ハリーが全速力で自転車をこぐシーンが何故かずっと脳内にあって、
それが書けて良かったです。
太郎は涙目
2010.4.25
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