←11
Hurry_5
真嶋太郎と小野美奈子が浜辺にて、自分たちの諸問題を解決した約半月前。
六月も半ばに差し掛かかり、薄暗い曇天が空を覆うころ、
針谷は井上と共に、夕刻の商店街を歩いていた。
「夏休みのライブに向けての構想、そろそろ出すかんな!」
という針谷の言葉で、『Red:Cro'Z』夏ライブの陣が開始した。
残りの二人がバイトをこの後に控えていたため、
今日はファミレスでの打ち合わせを行うのみに留まったが、
これからどんどん大変になってくる。
休日であっても、メンバーのバイトが入ってしまうと
なかなか練習の時間が取れない。
だが、少ない小遣いではバンドの活動はおぼつかない。
そればっかりは仕方がなかった。
愛用のギターを背中に背負った針谷に向けて、同じくギターを背にしている井上は言った。
「おぅ、今日ののしんも機嫌が悪い」
その言葉に針谷は不快そうな顔をした。
「悪くねぇよ」
「小学生からの付き合いをなめんな」
井上はわざと軽やかに笑う。
「どうした? 勉強がわかんねーのか?」
「んなモンで今更落ち込むかっつーの」
「あいつらのバイト魂に怒ってんのか?」
「俺だってあいつらと同じだろ
金が無かったら、バンド活動自体ができねえ」
「…美奈子ちゃん、元気?」
井上は相変わらず核心を突く。まるで毒針のような男だ。
「女って奴が、俺にはわっかんねぇ」
「お前何恥ずかしい告白してんだ」
「……。
なっ…! ふざけんな テメー!!」
針谷は真っ赤になって井上の頭を殴る。
井上は一瞬痛そうに顔をしかめたが、すぐに「ふーん」という真顔になった。
「状況、変わらず…か」
「ムカつくくらい何も変わってねぇよ」
―知りたくもない、真嶋の新しい一面を知ってしまった以外は。
真嶋をどうしようもない悪辣漢だと思っていた針谷にとって、
喫茶店でのあの憐憫は衝撃だった。
ネイを大好きだと言い、
行っても良いかと懇願する真嶋。
美奈子と志波を善、真嶋を悪に二分割したかった針谷にとっては、
あの表情はどうにも邪魔である。
何だか見捨てられた犬のようで、放っておくことが罪にすら思われた。
気分が悪い。
物事がもっと単純だったら良いのに…と望む自分。
だがそれで、ミュージシャンとしてやって行けるのか?
只の針谷が、ハリー様になれんのか?
針谷が一人モード兼禅問答に入る直前に、
井上が隣から針谷の服をひっぱった。
「なあ、はば学の部長がいる」
現実に引き戻された針谷が目を前に向けると、
商店街通りの10メートルくらい前で
スーパーから出てくる野球部部長の森と
黒い髪をポニーテールにした長身の少女の姿が目に入った。
二人とも学校のジャージ姿で、両手いっぱいにスーパーの袋を持っている。
おそらくは、部活の買い出しか何かだろう。
ここからはば学に歩いて帰るのか―
針谷がそう思っていると、向こうも気がついたようで
「おっす!」
と、こっちに向かって笑顔を返してきた。
彼らが両手にビニール袋をぶら下げたまま
こっちに来そうな様子を見せたので、針谷は言う。
「重くねぇか? 持つぜ」
井上も同調した。
「こっからはば学まで、その荷物じゃきついでしょ」
針谷達の方から、森と少女に近づいて行く。
『Red:Cro'Z』とはば学野球部の面々は、
ライブやそれに伴う交流を通して、いつの間にか大分親しい仲になっていた。
森と一緒にいる少女も、以前ライブで見たことがある。
確か、はば学野球部のマネージャーだったはずだ。
運動部所属には見えないような、清楚な感じの少女である。
つやのある黒髪と、スッと通った鼻梁が
どことなく知り合いの水島密に似ていた。
「桑名さん…だったよね?」
井上は、既に彼女の名前を把握していた。
桑名が頷くと、井上は彼女の持っていたビニール袋を持つ。
袋の中には、スポーツ飲料とお菓子が入っていた。
「あ、私は大丈夫だから…」
「いいから」
遠慮する桑名の言葉をさえぎって、井上は袋を抱えた。
「これは重いよ、無理無理」
針谷は、井上の対人スキルが自分より上であることを実感せざるを得なかった。
代わりに森の方に手を伸ばす。
「おぅ、持つぜ」
森は礼を言って、針谷に袋を一つ預けた。
そして井上の方を向く。
「なぁ井上」
「何?」
「これ、はば学まで持ってくぞ」
「承知」
はば学の二人はそれは悪い、そこの信号までで良いと言ったが
今にも雨の降りそうなこの天気では、
二人が重い荷物を抱えて濡れ鼠になる可能性が高いので
強引に持っていくことにした。
四人で道を歩いていく。
夕暮れのせいで長くなった影が、車道のガードレールにもたれかかっていた。
「本当にありがと。助かった」
桑名は切れ長でどことなく憂いのある瞳を持っていたが、
笑顔は普通の女子高生だった。
「っていうかやっぱり自転車借りてくるべきだったなぁ
こんなに荷物が多くなるとは予想外だった」
森の言葉に、桑名が瞬時に言う。いわゆる阿吽である。
「本当だよ。吉冨や小林の借りてくれば良かったのに」
「吉冨はダメだ。買い出しに出すと、自分の欲しいもんしか買わねーし」
「だから自転車だけ借りてさぁ」
「やだ。あいつ、ついてくるもん」
県内最強と噂される野球部の部長とマネージャーの会話は、何とも牧歌的なものだった。
桑名のありふれた明るさに、針谷は小野を思わずにはいられない。
同じ部活で、同じマネージャーというポジション。
―美奈子と志波も、こんなんだったに決まってる
なのに今じゃ、あいつら目も合わせねぇ
一体どうして、二人の関係はズレたのか。
それを思うと、しおれかけていた真嶋への怒りが再燃してきた。
よし、これでいい。
大きく緩やかな坂を上ると、はば学の校舎が見えてきた。
緑色の木々が敷地内を隠すように、塀の周囲に茂っている。
端っこの方に、教会の尖塔らしきものが見えた。
噂には聞いてるけど、やっぱスゲェ学校だなと、針谷は素直に感じた。
裏門の前で二人に袋を手渡し
「じゃあな」と針谷達が去ろうとすると、
森がそれを遮った。
「待てよ。良かったら、中で休憩してかない?」
桑名も頷く。
「うん。せっかく来てもらったんだし。部室きなよ」
「えっ」
甲士園地区予選直前のこの時期に、それってスパイ行為じゃね?と
野球部関係者でもないくせに針谷はひるんだが、
はば学側の二人は特に気にする様子もない。
「うちの学校、校則ゆるいから見つかっても平気だよ。
…ちょっと厳しい先生はいるけど」
「その先生、今の時間は音楽室にいるから会わないだろ。
もし会ったらダッシュで逃げればいい。お前ら私服だから、どこの誰だかわかりゃしねーさ」
もしかして、あのアンドロイド先生とやらかと針谷は思うが、
先生からの逃亡自体は普段からやっているので問題ない。
「こう言ってくれてるんだから良いんじゃね? 俺、はば学見てー」
井上は他高潜入に乗り気になっているし、二人が良いと言うならと、針谷も承知した。
ただし、ここで見たこと聞いたこと、一切志波には言わないと
自分の中でひっそり誓いを立てる。
俺ははば学の連中の友達としてここに来た。
フェアじゃないことは、絶対にやんねぇ。
それに志波は、針谷の予想以上にアンフェアを嫌うだろう。
裏口から入ると、花壇の夏薔薇が咲き誇っていた。
日曜なのに、役員らしき茶色いスーツを来た紳士が花壇の横に立っており
針谷達を見るなり
「やぁ、ようこそ」
と穏やかに笑う。
寛容にも程がある。
針谷は紳士にお辞儀をして、はば学ははね学とは違うと、改めて実感した。
(彼が理事長だということは、しばらく後で森から聞いた)
四人は校舎には入らず、部室練へと直行した。
部室練に入った途端、運動部特有の青春臭い香りが壁から伝わってきて
針谷は思わずむせそうになる。
ちなみに、運動は得意ではない。
『バスケ部』『新体操部』『テニス部』
プレートが掲げられたいくつかのドアを通過して、とうとう目的地に着いた。
『野球部』
はばたき市に住む野球少年にとっては、はば学野球部は憧れの場所らしい。
志波も、例の事件が無ければはば学に行っていたと思う、と言っていた気がする。
野球の天才と言われ続けた志波にとっては、はば学野球部が当然の進路だったのである。
つまり、本当なら志波はこのドアの向こう側にいる人間で―
などと針谷がぐるぐる考えていると
隣で桑名がおとなしそうな外見に似合わない大声を出した。
「たーだいまーーーーっ!!!」
その瞬間にドアがガラッと空き、針谷も顔見知りのキャッチャーが顔を出した。
「買い出しありがとー!!!! …って、ハリー!? え、井上くんも!?」
彼の声の後で、部室内からざわめきが広がる。
「え、ハリー!? マジでっ!?」
吉冨がキャッチャーを押しのけて、ドアに突進してきた。
日本人離れした深い顔。
日焼けのせいか、肌が小麦色になっている。
「うわー マジでハリーと井上じゃん! 何で?」
「買い出し中に偶然会って、手伝ってもらったんだ。
そのお礼に、俺が招いた」
興奮気味の吉冨に対し、森は笑顔をたたえつつも冷静に答える。
「へー 何? 曲作りのインスピを得るために、俺の雄姿を見に来たってこと?
ま、見るだけならいくらでも見せてやんよ」
テンションの高い吉冨をよそに、針谷はどうしようもない居心地の悪さを感じる。
部屋の奥で、ガサガサという音がする。
おそらく、データブックを隠す音だ。
見れらないように。
小声ではあるが、「え…はね学の人?」という声も聞こえた。
針谷は確かに同学年のはば学野球部とは仲が良いが、野球部全員と面識がある訳じゃないのだ。
ましてや甲士園のライバル校。
俺、招かれてねぇだろ…と不安を感じていると、井上が針谷の後頭部にデコピンをした。
「何だよっ!」
思わず怒ると、井上がニヤッと笑う。
「へっへっへ」
何ともムカつく笑顔だが、それを見ていると針谷は妙に安心した。
すると、横から森が小声で言う。
「俺が呼んだんだから大丈夫だ。でも、気ィ悪くさせてたらごめん」
「へーきっすよーっ!!」
針谷の代わりに、何故か井上が明るく返事をした。
「っていうか買い出し量が多すぎなんだよ。
女子に買い物させて自分らは部室で麦茶とか、イイ男失格ですから!」
桑名が演技がかったもの言いをすると、一気に空気が別方向に飛んだ。
下級生と思われる数名が困惑した顔をして、
「桑名先輩、すみません…!」
と謝りに駆け寄ってきた。
「じゃあ出世払いね。プロになったら10倍にして返して下さい」
桑名は計算済みだったようで、ハイハイと後輩を軽くあしらう。
…どうも、見た目通りの性格ではないらしい。
先に部室に入った森が、二人に対して「入れよ」という風に手招きをした。
それにつられて部室に入ってみると、そこは未知の世界だった。
壁の上側一面に飾られた記念写真。
その下方では、調和を崩すかのように、木製ロッカーからはみ出している私物。
人が寝転がれる位に長いビニール椅子や、
野球道具らしきものが入っている金属ラック。
運動部の部室というものに縁が無かった針谷にとっては、
まごうこと無き「アスリートの部屋」であった。
「ま、ちょっと散らかってるけど気軽に座って。飲み物出すから」
桑名はそう言うと、スーパーのビニール袋を開封した。
そしてクッキーの箱を取り出し開封する。
「良かったら、お菓子もどうぞ」
針谷は人見知りが爆発して借りてきた猫のような状態になってしまい、
座らされたソファーの上で一人硬くなっていた。
『Red:Cro'Z』関連で知り合った数名が声をかけてくるが、
アウェーなこの場所では、なんとか返すので精いっぱいである。
一方の井上は妙にリラックスした様子で、部室を歩きまわっていた。
こちらは犬のように部屋のあちこちを見ていたが、
やがて一つの場所でぴたりと足が止まった。
『2005年 夏』
と書かれた写真の前である。
井上は何か考え込むような様子で、その写真を見ていた。
「…どうした?」
あんまり井上が長く突っ立っていたので、森が不思議そうに声をかける。
すると、井上が小さくつぶやいた。
「コッテ牛」
「へ?」
謎の言葉に森が呆気に取られると、井上は我に返った。
「あ、ごめん。
いや…昔読んだ小説で、『コッテ牛』って言う言葉が出てて。
何か登場人物の一人で、そんなあだ名の奴がいたんだ。
で、ついこの人見てたら、反射的に言っちゃってさ
…コッテ牛っていう言葉の意味はよくわかんないから、悪い言葉だったらゴメン」
ああ、と森は息をつき笑う。
そして人差し指を伸ばして、監督の隣にいた人物を指差した。
「この人?」
「あ、その人」
「島田さん。黄金コンビのキャッチャーだよ。
ちなみにコッテ牛っつーのは、頑固とか強情って意味だったと思う。
じーちゃんが使ってた」
「この人、頑固?」
「めっちゃ頑固」
そのやりとりを聞き、針谷も好奇心にかられる。
井上と森の目線の先には、分厚い眼鏡をかけた大柄なユニフォーム姿の生徒がいた。
牛と言えば、確かに牛である。
コッテという響きも、何となく写真の彼には合っていた。
島田と聞き、それがどんな人物であるかを針谷は瞬時に思い出した。
当時マスコミを席巻していたし、小野や志波がたまにこの名を口に出していたのだ。
まだ針谷が学ラン姿の中学生だった時代。
―2004年と2005年
はば学は、夏の甲士園で連覇を成し遂げた。
2004年の夏は初優勝で、2005年の夏は連覇ではばたき市は沸いた。
そしてその時のバッテリーが、同一人物だったのである。
一人は島田敦。
大柄で無口、四角い顔に色黒とキャッチャーの見本のような男である。
その風貌と、どんなピンチの時でも乱れないという高校生らしからぬ落ち着きようから
マスコミには「守りの知牛」という謎のキャッチフレーズを付けられていた。
そしてもう一人は島田から監督を挟んだ位置で、快心の笑顔を見せていた。
日比谷渉。
マスコミで騒がれた頻度は、実は彼の方が多い。
2004年の夏、決勝戦。
長身の選手が多いはば学では、こう言っては失礼だが
165pしかない日比谷はまるで子猿のようだった。
大きな瞳と、良く動く表情筋が余計に彼を猿に見せたのかもしれない。
だが子猿は甲士園を制し、その素直すぎる言動と、
試合展開において綱渡りのようなギリギリの投球で
大いに世間を沸かせた。
そして翌2005年。
子猿は再び甲士園に現れた。
だが彼は、既に子猿ではなくなっていた。
身長がかなり伸び、一年で一気に大人っぽくなっていたのだ。
元々のくりっとした瞳は、特に欠点の無いその他顔立ちを大いに引きたてた。
つまりは、イケメンになっていたのだ。
その変化は世の女性達を大いに喜ばせたが、
相変わらずのフリーダムな言動が「残念なイケメン」として、
一部のマニアックな愛好者に大受けした。
写真の中の日比谷の顔を見て、何かが針谷に襲いかかってきた。
「あれ…」
この目、この目。
どっかで見た。
丸くて人懐っこい感じの、リスのような目。
日比谷の目の色をもっと見ようとした瞬間に、
「声」が針谷を直撃する。
少し鼻がかったような、独特のあの声。
『あの…もしかして、『Red:Cro'Z』のボーカルのハリーさんと、ギターのinoさんッスか?』
針谷の中で、波が引く。
―思い出した。
4月の始めに喫茶店で出会った男性だ。
普段は自分に関して慎重になることの多い針谷であったが、今は自分の判断に絶対の確信があった。
自分に初めてサインを求め、自信を与えた人間だ。忘れるはずが無い。
俺、日比谷さんと会ってたのかよ
つうことは、日比谷さんの言ってた「後輩」っていうのは、こいつらの事か。
なんつーか、世間は俺の予想より狭いのか?
「なぁ、あのよぉ…」
日比谷の事をもっと聞こうと針谷が森に声をかけた瞬間、
後ろから子供のようなわめき声が聴こえた。
「おいっ!! オメーら写真見てねーで菓子くえよっ!!」
吉冨である。
傲慢な天才が気難しさの欠片を見せると、森が針谷を見て「申し訳ない」という風に失笑した。
その一瞬で、針谷は悟った。
そう言えば、噂はあちこちで聞いている。
「吉冨は同じピッチャーとして、日比谷にムカついている」ということは
はね学生で、しかも野球部員でもない針谷の耳にすら入ってきていた。
どこかで聞いて放っておいた情報が、針谷の中で動き出す。
そして一気にわーっと回り始めた。
「吉冨は今年優勝しても、三年生だから一度しか優勝投手にはなれない。
連覇を成し遂げた日比谷には勝てない。」
「ずっと日の当たる場所を歩き、スポーツ推薦で入学した吉冨は
一般枠で入学した日比谷を内心小馬鹿にしてる。」
「身体能力や実績で考えると、吉冨の方が日比谷の100倍は才能がある。」
「日比谷の最大の能力は運であり、次がはば学部長のポジションにめげないメンタルである。
技量そのものは、吉冨には及ばなかった。」
この部室にいることで、不思議な重みが針谷にのしかかってきた。
重みは針谷の足にまとわりつき、耳元で「優勝、優勝」とまくし立てる。
―優勝への重圧。
それを発しているのはこの写真であり、はば学校舎全体であった。
そう言えば、吉冨が窓から捨てようとしたという噂のトロフィーが無い。
理事長室にでも移したのだろうか?
全校の期待を真正面で受けているのは、部長である森を除けば間違いなく吉冨であった。
ピッチャーというものは、かくも注目されやすいポジションである。
しかも今年は、戻ってきた強肩の志波がいる。
以前、針谷が母親の日舞に使う花を買いに行ったときに
吉冨と志波は中学時代からライバルだったことを
アンネリーの真咲先輩が教えてくれた。
叶うならば、志波と吉冨の直接対決を皆が望んでいる。
全てが吉冨にとってはプレッシャーの元だった。
自分を天才だと言い放つだけの資格を持っていても
人一倍繊細でもろく、
変な所を押せばすぐに折れそうな吉冨にとっては、日比谷の存在が疎ましいに決まってる。
だが先輩。いくら吉冨でも、公式の場でこきおろせる相手ではない。
それが一層、疎ましくてたまらないだろう。
針谷は、日比谷の話題を出すのを辞めた。
井上も吉冨の苛立ちの理由に気がついたようで、
「わりー わりー!」と言いながら
部員たちの待つソファーへと向かった。
「飲んで。飲んで」
桑名が入れた麦茶が、水色のコップの中で静かに揺れている。
「みんなも食べなよ」
桑名は部室の隅で良きせぬ客人に緊張していた下級生に声をかけ、
彼らに菓子ののった皿を差し出した。
部室の中央にあったテーブルとソファー地帯には
森、吉冨、桑名ら三年生がずらっと座り込み、
下級生達は少し離れたビニール長椅子で固まって座っていた。
こういうのを見ると、運動部だなと針谷は思う。
無意識なのだろうが、厳格な先輩後輩の空気が出来ている。
「部員、多いんすね」
井上が言うと、森が返した。
「運動部の中では一番多い。男ばっかでむさいけどな」
「桑名もスカート履いた男だかんな」
吉冨の悪ふざけに、桑名は「明日は吉冨だけ特別メニュー」と涼しげに応酬した。
その他レギュラーの面々も、針谷と井上を囲んであれやこれやと話しかけてくる。
緊張していた針谷だが、徐々に慣れてきた。
そして森や桑名や他の友人たちが、
自分たちの居やすい空気を作ろうとしてくれていることが何とも嬉しかった。
一時間ほど話して、そろそろ帰り時かな…と針谷が思った瞬間、
後方から声がかかった。
「あ、あの…ハリーさん!」
知らない声色である。
後ろを向くと、一年生らしき部員が顔を真っ赤にして針谷を見ていた。
「あれ、大西くん」
桑名が意外そうな顔をした。
大西と呼ばれた部員は、自分のこぶしを握りながら言う。
「き、緊張して言えなかったんですけど、僕…『Red:Cro'Z』さんの大ファンなんです!」
「え!? そうなのっ!? 知ってたらライブに誘ってたのに」
森が呆気に取られたような表情をする。
「俺らの学年でまとまっちまって悪かったな。今度から全体に声かけるよ」
大西は森にあざーす! と言い、その後針谷の方を見た。
「あの、図々しいのはわかってるんですけどっ!
もし良かったら、ハリーさんとinoさんの生音、聴かせてくれませんか…?
いや、無理だったら本当に良いんでっ!」
大西のねちっこいのか引き際が良いのかよくわからない懇願を受け、
森と桑名は困惑の色を見せた。
おそらくは後輩の気持ちもわかるのだが、客に「弾け」とは頼めない…という所だろう。
それを見て、井上が言った。
「ハリー、ひくか」
のしんではなく、ハリーと呼んだ。
井上がライブモードに入ったことを針谷は悟る。
と同時に、こんなにスムーズに気配りができる井上を純粋に凄いと思った。
「お、おう」
一瞬言葉がつまったことを気にしつつも、針谷はギターをケースから取り出す。
どうしよう、体温が上がってくる。
皆が見ている。
井上が笑顔で周囲に呼びかけた。
「あ、俺ら今練習モードなんで、失敗するかもしんねーです。スミマセン」
井上の行動がどこまで計算されているのか、もはや針谷の推測できる域を超えていた。
ともあれ、今の言葉で針谷の緊張も大分溶けた。
失敗してもいい。とりあえず楽しくひこう。
針谷がギターの弦に触れると、部室に音楽が舞った。
部員たちは目の前で生演奏が行われるということに気を取られ、目を輝かせる。
掴めた、いける。という妙な自信を得た針谷は
勢いにまかせてそのまま曲名を言い、歌い始めた。
客観的に考えると、青臭さが過ぎる構図ではあるが、
不思議と嫌いではなかった。
何故なら、しばらくここにいるうちに
彼らが自分達と変わらない一高校生であると実感できたからだ。
もちろん自分は野球はしないし、勝ち負けの明確なものと戦っている訳ではないけれど―
針谷と井上の音に耳を傾ける部員達、使い込まれた野球道具、
「目指せ! 甲士園」と毛筆で書かれ、壁に貼られている半紙。
きっとはね学もこんなんだ。
志波や美奈子となんら変わりは無いだろう。
もしも自分がはね学生でなかったら、中立に「はば学対はね学」を楽しめたかもしれない。
それが出来ないのは、やはり残念ではあった。
はね学を応援しているのは当然だが、どっちの学校も善戦して欲しい。
それが針谷の本音である。
甲士園地区予選の開幕は、あと一週間後に迫っている。
大分暗くなった空の下。部室棟の一角では、まだしばらく『Red:Cro'Z』の音楽が鳴り響いていた。
→12
はば学側を書きたかったので、修羅場前にちょっと閑話休題です。
自己満足が著しい回になりまし た
そういえば、コミュノベでゲットした『Red:Cro'Z』四人の画像が恐ろしく萌えたのですが
573様、あとの二人の情報もお願いします!!(切実)
「コッテ牛」という言葉は、宮本輝さんの『青が散る』という小説からお借りしました。
『青が散る』は色々な意味で恐ろしい本でした…!!
2010.3.7
back