←Hurry_6
13
私が太郎くんに裁きをふるった瞬間に、
ハリーが店内に飛び込んできた。
「…ハリー?」
余りにも予想外の登場に、私の思考は停止する。
対するハリーは運動でもしたのか、ゼエゼエと息を切らして顔を赤くしながら、
その少し大きめの瞳で私を見つめていた。
ああ、まぎれもなくハリーだ。
こうして顔をまともに合わせたのは、一体何カ月ぶりだろう?
太郎くんの卒業式から話してなかったから…約五か月ぶりか?
「オ…オッス」
彼はおずおずと手を上げる。
私と太郎くんの最後の邂逅に、突然乱入してきたハリー。
一体何があったのだろう。
呆然としていると
ついさっきまで私に懇願していた太郎くんの顔が下を向く。
そして去った。
太郎くんはハリーの横を通り過ぎ、無言でアルカードから出て行った。
きっと、もう、二度とここには来ない。
彼の背中をしっかりと見届けた。
さよなら、私の負の遺産―
私は最後に、勝者になった。
ねぇ、そうだよねぇ?
これがゲームだって教えてくれたのは、太郎くんだったよね?
ハリーは困惑したように、太郎くんの背中を見つめている。
それは羽虫みたいなものだから、無視していいよと、
私は心中でハリーに呼びかけた。
そしてふと気が付く。
皆が我々を見ていることに。
客と従業員一同の視線の中心に、私とハリーは立っている。
ハリーも、ここがまさかこんな修羅場だと思っていなかったのだろう。
困ったような様子で、目線を私からそらした。
口も少し動かしているが言葉は出さず、何だかもごもごしている。
でもこんな所まで来たということは
何か余程のことがあったのだろう。
というか彼は、私がここでバイトをしていたのを知ってたのか。
私は必死で隠していたつもりだったのに―
自分が思っている程には、己の行動を回りの人に隠せていないのだとわかった。
「……」
ハリーは沈黙と共に私を見つめた後、はっきりと言う。
「美奈子、はね学の甲士園出場が決まったぞ」
「えっ?」
本当に無意識に、この言葉が出た。
無意識だったのだ。
無意識なんだから仕方が無い。
信じがたいことだが、私は今日が甲士園地区予選の決勝であることを
すっかり忘れていた。
その瞬間に、私は自分に愕然とする。
―ありえない。
太郎くんなんかのせいで野球部を捨てたことが辛すぎて、
あらゆることを忘れたい忘れたいと必死で願っているうちに
本当に忘れていたのだ。
あの公園デートで太郎くんの最低な正体を見てから、
私はいかに真嶋太郎を滅却するか、そればかりに心を費やしてきたのである。
荒れた心にローラーをかけることに、せっせと汗を流していた。
それ故に、太郎くん本体と関係ない事柄は、全て綺麗に忘却していた。
野球部の事を、忘れてた。
心の中が太郎くんに浸食されていたんだ―
自分の下らなさに恐怖すら感じ、思わず膝をつきそうになった。
そんな私の様子を見て、ハリーが心配そうな顔をする。
「お…おい、どうしたんだ? 嬉しくねぇのか?」
「……」
今にも嗚咽がこみ上げそうになった。
嬉しいとか嬉しくないとかの話じゃなくて、
私がどれだけろくでもない人間かを思い知らされたことに対して。
ハリー、ごめん。
心中でハリーに詫びる。
きっとこれを伝えるために、わざわざ来てくれたのだろう。
でも私の中身は、太郎で充満していた―
唇を噛むと、ポロっと一滴、涙が落ちた。
これはどういう感情なのか、もはやよくわからない。
「オイ、大丈夫か!?」
ハリーが私の顔を覗き込む。
「だ、だいじょうぶ、だいじょうぶ…」
私が中身の伴ってない言葉を羅列していると、店長が私の肩を掴んだ。
「小野さん、休憩室に行こうか」
「申し訳ないけれど、少しお待ちいただけますか?
ドリンクはサービスしますので」
店長はハリーにそう言うと、私を店の奥に引っ張って行く。
ハリーは唖然とした顔で、消えゆく我々を見ていた。
きっと、彼も訳がわからなくなっている。
この前の土下座騒動程には、私は店長に怒られなかった。
いや、むしろ全然怒られなかった。
休憩室のソファに向かい合って座ったが、
店長は始終穏やかであり、その様子は優しいとも合理的とも感じられた。
もう今日は仕事が出来る精神状態じゃないと思うから、このままあがって良い。
太郎くん関連の一連の出来事は、詳しくは聞かないが
もしも今後が心配なら、店側から太郎くんに注意をする。
だが、今後はプライベートを店に持ち込まないで欲しい―
これが店長の話の要点である。
まだバイトの身ではあるが、まったく社会人失格過ぎる。
私は店長に平謝りし、着替えて荷物を引きずりながら店を出た。
そして従業員入口から外に出ると、
そこで待っていたハリーと目が合った。
彼は私を見ると、そこに留めてあった自転車の鍵を外し、
私に手を差し出す。
私がきょとんとしていると、彼は小さく言った。
「荷物、カゴに入れてやる」
私は小さく「ありがと」とつぶやき、彼に自分のバッグを渡した。
帰り道、私たちは恐ろしく無言であった。
ハリーは歩いて自転車を運び、私は横で追従する。
徹底した沈黙に対して、セミの合唱が空々しい。
商店街のにぎわいも、完全に他人事と感じられる。
言うならば、私とハリーは完全に周囲から独立していた。
それ故、私の妄想は爆発する。
きっとハリーは困っている。
喜んで欲しくての報告だったろうに、私がおかしくなったから。
彼は自分を責めるのではないか、余計な事をしたと。
こんな私のうだうだを切り裂くように、ハリーが言った。
「…ちょっと寄り道すっか?」
私は無言で頷く。
このまま無言で帰るという行為は、何故か考えられなかった。
やがてたどり着いたのは、アスファルトの道路に面した海であった。
海と道路を鉄柵で区切ってある。
今年のお正月、初詣の帰りに二人で寄った場所だ。
だが私を迎えるのは、冬の黒いざんざんの水面ではなく、夏のぬっくい水面だ。
そうか、季節は反転したんだ。
「…っこらしょ」
ハリーは自転車を止めた。
私は無言で、アスファルトの上に座る。
ハリーも少し間を開けて、その隣に座った。
「…わりぃこと、したな」
予想通り、彼は自分を責めていた。
私は必死で首を降る。
ハリーは悪くない。これっぽちも悪くない。
悪いのは私だ。太郎毒に、いつの間にか犯されていた私だ。
「…ハリーは…全然悪くないよ」
「……」
彼は何も言わなかった。
波の音がかましい。
私は言う。何故か微笑みを伴って。
「…全部、ハリーの言う通りだった」
「あ?」
彼はよくわからない、という顔をした。
「今年のお正月に、言ったじゃん。
…太郎くんなんて論外だって。
本当だった」
私の言葉に、ハリーは絶句した。
「私…何であの時、ハリーの言うこと聞けなかったんだろ…
本当に馬鹿だよ」
「……」
ハリーは、自虐の言葉を吐く私を見つめる。
「…取り返しの、つかないこと…しちゃったね」
私の愚痴は途切れない。
やがて涙声になる。
「……なんで私…太郎くんなんかに…」
「おいッ!!」
ハリーが怒ったように叫んだ。
予期せぬ怒声に、私は顔を上げる。
「オマエはあの時、真嶋と勝負するって言ったじゃねぇか!
で、精一杯行動したんだろ!?」
彼の顔が怒りで赤くなっている。
―本気で怒っていた。
「本気で戦ったなら、後悔なんかすんじゃねぇっ!
オマエが男だったら、三連デコピンする所だっ!」
「……」
予想外の言葉に、私は彼を見つめた。
この人は、こんな私を心底怒ってくれている。
逃げるようにニガコクから去った私を。
私の視線に気が付いたハリーは、何故か少し照れたようにうつむいた。
「俺は西本じゃねぇから…お前と一緒に泣いてやることは出来ねぇ。
それに俺は志波じゃねぇから…いや、何でもねぇ」
彼の言葉の意味がよくわからない。
が、首をかしげる私に対してハリーは言った。
「でも、俺はハリー様なんだぞっ!?
俺が聞ける話なら、何でも持ってこい!」
「…ハリー様の根拠がよくわからないんだけど」
図星だったのだろう。
ハリーは小声で「ったく、わっかんねー奴だなぁ」と言った。
多分、彼自身もわかってない。
でも、気持ちは嬉しかった。
ハリーのポケットで携帯が揺れる。
誰かから連絡が来たようだ。
「ちょっと、わりぃ」
彼は携帯を取り出し、画面を確認した。
そして目を大きく開ける。
何かを確信したような表情だ。
唐突にハリーは切りだす。
「…オマエ、甲士園見に行かね?」
「えっ!?」
彼の突然の言葉に、私は驚きの叫びをあげた。
地理的にも甲士園は、そんなにホイホイ行ける場所ではない。
「…西本が、甲士園見に行くんだってよ。
つうか西本のばーちゃん家が甲士園の近くにあって、
毎年夏休みにばーちゃん家に行くんだって。
で、今年は甲士園もあるから、良かったらオマエも泊まってほしいって」
「……」
話の飛躍に、私はついて行けなくなった。
なんで、いきなり、そんな話が。
「つうか西本…俺の行動を読みやがった。
チックショウ…」
ハリーのは妙に悔しそうな顔をした。
その直後、ハリーの自転車のカゴに入ってる私のカバンから
携帯のバイブ音が響いた。
もしかして―
私が携帯を確認すると、予想的中だ。
はるひからメールが来ていた。
「おいでませ西本家!」というタイトルだった。
本文を見る。
「美奈子、色々ほんまにお疲れ様。
アンタはよ〜頑張った!
アタシで聞けることやったら、何でも愚痴ったて!
ところで、そこにハリーのアホおるやろ?
アイツ、はね学が甲士園に行けたこと、めっちゃ嬉しいねん。
もしもアンタが可能なら、皆で甲士園見に行こうと思うんやけど…
アタシのばーちゃんが甲士園の近くに住んどるから、泊まる場所は問題ナシや!
ばーちゃんもOKいうとった!
ハリーもお爺さんが近くにおるんやて。
だから美奈子、一緒に甲士園見にいかへん?
急な話やけど」
「…話が自動的に進んでる」
私が呆けていると、ハリーは半分やれやれと言った感じで言う。
「西本が、もしはね学が甲士園に出れるなら
オマエに甲士園を是非見て欲しいって、前からずっと言ってたんだよ。
アイツはまー…その…なんっつーか甘ったるい話に全部結びつけたがるからよ」
「私が…甲士園」
言いながら、自分でうなだれた。
―そんな資格、ある訳ない。
私は野球部を捨てた。
皆に迷惑をかけた。
その上、今日が地区予選の決勝だと言うことすら忘れていた。
ゴミの中のゴミである。
はるひの好意は嬉しかったが、私なんかが行っちゃ駄目だ。
「無理だよ…」
私の言葉に、ハリーはきっぱり言った。
「俺は行くからな!
じいちゃん家に泊まる」
若干、意外であった。
「ハリー、野球にそんなに興味あったっけ?」
「バカ。志波の晴舞台だぞ」
「そっか、志波くんか…」
ずっと会っていない友人の顔を思い浮かべ、私は薄く笑う。
「私、特に志波くんには合わせる顔がない。
…私の分まで、応援してきて」
「……」
ハリーは少し何か言いたげな顔をしたが、結局無言のままだった。
やがて彼は立ちあがり、自転車の鍵を外す。
「帰るぞ」
私は黙って頷いた。
それにしても、はるひはハリーが好きなのに、
どうしてこんなことを考えたんだろう?
ハリーに女の子が近寄ると、いつも心配する子なのに―
わざわざ私とハリーを近づけかねないことをするなんて。
…もしかして、はるひは私を「脅威」として捉えていないのだろうか?
まあ、実際そうだろうが…
ハリーとは途中の交差点で別れた。
私に対し、彼は「またな」と言った。
思ったよりもずっとあっさりと、
私とハリーの仲は氷解したのだ。
家に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
自室にて、はるひのメールを再び見る。
何度見ても同じ文面だが、
それに対する私の返事もまた同じだった。
―行けない。
はるひのお婆さんに迷惑をかけるという理由だけではなく(それもあるが)
心情として、不可能だった。
ハリーやはるひの好意は本当に嬉しいけれど、
野球部の皆…特に志波くんだけには
どうしても会っては行けない気がする。
志波くんも、太郎くんには近づくなと言っていた。
私はそれを無視した。
今更、どの面下げてノコノコと?
志波くんは野球を本当に大切にしている。
だから、野球部のことすら忘れていたような奴となんか、
会いたくもないだろう。
私はしばらく携帯の画面を見つめていたが、
はるひに「悪いけど行けない」という旨の返信をした。
しばらくして、はるひから
「気が変わったら、いつでも連絡して欲しい」という趣旨の返事が来たが
私の気は、変わらないだろう。
ふと生温かい風を感じ、窓の方に身を近づけた。
窓の外を見ると、夏の夜空が広がっていた。
思いの他、星がはっきり見える。
一年前、真咲先輩と一緒にバイト先から帰った時のことを思い出す。
異様に冷えたオレンジのジュース、真咲先輩の大人っぽい笑顔。
それがまるで大昔のことのようだ。
心の中で
「野球部の皆、甲士園おめでとう」と
思いながら、
私はぼんやりと星空を見つめていた。
→14
「何という嫌なデイジー…!」と思って頂ければと思います。
はるひの出番が多くなりましたが、
もっと出てない2ndキャラも出していきたいです。
2010.5.1
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