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八月に入り、いよいよ甲士園の開幕が近づいてきた。
自然の摂理で、私も甲士園への興味を取り戻す。
優勝候補のはば学を破ったということで
テレビや新聞は、はね学を注目校として取り上げている。
高校野球が好きな人々の間では、日増しにはね学の知名度は高まっていった。
本屋の野球雑誌では、はね学の皆の顔が載っていた。
楽しそうな笑顔と、厳しい練習風景の写真。
そこに載っているのは確かに知った顔の面々だったが、
もう私の手の届かない所に行ってしまっていた。
もう、私の知ってる野球部ではない。
マネージャーだって、もうさっちゃんだ。
雑誌で見るさっちゃんは相変わらず小さかったが可愛くて、
とても好感の持てる少女であった。
そうだ、明後日から甲士園が始まる。
テレビではね学の全試合を見よう。
はね学の初戦は、二日目の第一試合。
北海道の強豪、乱舞流だ。決して楽に勝たせてくれる相手ではない。
あの太郎くんに引導を引き渡した日から、私の日常は急速に平和になった。
太郎くんは、あれから一回も店に姿を見せていない。
アルカード自体も、店長の奥さんの出産などで、
お店自体が約三週間の休みを取ることになった。
ちょうどその時期が、甲士園の開催期間に重なっていたのだ。
つまり、私は暇になった。
時間があったので
女友達と遊んで、今年の四月からずっと遊べなかった鬱憤を晴らした。
はるひと一緒に、ずっと行けなかった『Red:Cro'Z』の夏ライブに行った。
野球部の関係者は、甲士園が近いということで今回は来れなかったそうだ。
だからこそ、私は行けた。
また、高校三年生という時期を鑑みて、進路を考えたりした。
―進路かぁ…
ベッドの上で物思いにふける。
開けっぱなしの窓から、外の空気を感じた。
夏だ、本当に。
進路については、本当はもっと早く考えるべきだったが
日々に忙殺されて今の今まで放置していた。
私は勉強が出来ないので、一流大学は行けないだろう。
頑張れば二流に行けるかもしれないが、太郎くんと会うかもしれないから絶対嫌だ。
三流?
いっそ就職してみては…とも思うが、就職するだけの根性がまだ私には座って無い。
何をやりたいかがわからないから、専門学校も危険だろう。
「なにに、なろう」
私が小声でつぶやくと、呼応するかのように机の上の携帯が鳴った。
メールじゃなくて、電話だ。
携帯を確認すると、かけてきた相手は、信じがたい人物だった。
一瞬動きが止まったが、すぐに電話に出る。
「も、もしもし…」
『…今、大丈夫か?』
凄く久しぶりに聞く、この低い声。
「彼」だった。
私は何故か背筋を正す。
「大丈夫だけど…」
『お前の家の近くにいる。』
意図せぬ言葉に、呼吸が一瞬止まった。
『話したい。…来れるか?』
「うん」
『サンキュ。お前の家の玄関出て、右側の角に立ってる。
電柱の所だ』
「…わかった」
私は携帯を切った。
心臓が早鐘を打つ。
―彼は、何を思って私の所に来てくれたんだろう。
どうして私に会ってくれるんだろう。
私は彼に何を言おう。
玄関に直行し、家の外に出ると、右手に彼の姿が現れる。
あまりにも長身なので、近くからだと首を伸ばさなくちゃ顔が見えない。
精悍で整っているけど、怖いとも取られかねない顔立ち。
志波くんだった。
余りに久しぶりなのと、彼の予期せぬ出現に、私は心の準備が出来ていない。
「ひ…久しぶり」
私の訳のわからない挨拶に、彼は静かに笑った。
「ああ」
ここが家のごく近くだということに気がつき、私は言う。
「あ、あの…家に入る? 立ち話もなんだし…」
「いや、いい」
暫くして、彼はこう切り出した。
「もし良かったら、近くの公園に来れるか…?
少し話がある」
「うん」
私は即答した。
志波くんは、何を言いに来たんだろう―
家から徒歩五分。近所の公園に向かう。
夏の夜の公園というのは、昼と比べれば、ずっと静かなものである。
昼間鳴いていたセミも声をひそめ、別の虫の小さな鳴き声が響いていた。
暑さを含んだ空気とは対照的に、不思議な音色が広がる。
私たちは、並んでベンチに座っていた。
私は、圧倒的に会話に困っていた。
話題が思い浮かばない。
今更天気の話をするような仲では無いし―
そうだ、甲士園のお祝いを言おう。
いや、むしろ何で今まで言わなかったんだ。
そう思った瞬間に、志波くんが切りだした。
「知ってんだろうけど、甲士園…行くことになった」
「うん…おめでとう」
精一杯元気に言ったつもりだったけど、何故か私の声は小声であった。
―どうしてだろう?
「…おめでとう。本っ当におめでとう…」
やっぱり小声だ。
私は気づく。
野球部に対して、予想以上に自責の念にかられていることに。
自ら部外者になったくせに、それを突き付けられると心がガンガン痛んだ。
それに、いくら太郎くん憎しとは言え、私は野球部のことを忘れていたのだ。
自分がひどいと思った。
混濁した感情は、静かな笑顔になって表に現れる。
「皆、頑張ってたもんね… 凄く嬉しい」
この言葉は、偽りなしの本音だった。でも、声が出ない。
私の方を向き、志波くんは問う。
「…辛いか?」
私は小さく笑って首を横に振った。
大丈夫。自分で作った痛みには強い。
志波くんの横顔が、少し離れた所にある公園のライトに照らされていた。
「オレ達は、明日新幹線で出発する。
大会開始は明後日だけど、開会式は朝だからな」
「あ、そうだよね…」
確かに、明後日出発では間に合わないだろう。
―見送りにはとても行ける身分ではないが、心から応援している
と伝えようとしたその時に、志波くんが口を開く。
「だから…試合を見て欲しい」
彼の切れ長の瞳が、正面から私を見つめた。
「…小野に、オレの試合を見て欲しい」
あらゆる方向に捉えられる言葉に対し、私は返事が出来なかった。
「オレ」の試合。
オレ達のじゃなくて―
絶句している私を見て、彼は穏やかに笑う。
私はこの時、初めてその可能性に気が付いた。
そうなの?
ここ最近、身辺の天変地異が過ごすぎて、箱を真逆にひっくり返したような心境だ。
もう、とにかく話すしかなかった。
「で、でも…野球部に顔なんてとても出せるような立場じゃない」
「誰も、お前のことは怒ってない。
特に進藤は、まだお前を尊敬してる」
信じがたい事実が提示された。
―さっちゃん
「いや、私、見捨てたんだよ…」
「オレ達は、お前が好きで部活を辞めた訳じゃないって知ってる。安心しろ」
瞬時に私の顔が曇る。
辞めた理由を、皆知っているんだろうか―
それを見て、志波くんは言った。
「…悪い。深い所までは誰も知らねぇ。
ただ、本当にどうしようもない事情だったってことは、
オレが部長の相川に説明した」
私は恐る恐る問う。
「…志波くんは? 理由、知ってるの…?」
彼は押し黙ったが、やがて口を開いた。
「オレは…針谷から聞いた」
頭がぐらぐらした。
そんな私を見て、志波くんは目を伏せる。
「…いや、この話は辞める。悪かった」
「悪くないよ…」
私の言葉に彼は首を振ったが、言葉を続けた。
「…話、変えていいか」
私は頷く。
「聞きながら寝るなよ」
「…寝ないよ」
私の笑顔を確認してから、彼は静かに口を開く。
その表情は、柔らかいものから一変して、ひどく真面目なものになった。
「…お前がいなかったら、オレは二度と野球に戻ってこれなかった。
ずっと腐って…中学の出来事に縛りつけられたまま、卒業したと思う」
彼は少しだけ下を向き、すぐに視線を私の方に戻した。
「ガキの頃から、ずっと甲士園に行きたかった。
オレが甲士園に行けたのは、お前のおかげだ。
だから、オレの試合を見てくれ。
…テレビでいいから、見て欲しい」
「…私ね」
無意識のうちに、口が勝手に動いていた。
もう全部無意識だ。
「…志波くんは、私の顔なんか二度と見たくないんだろうって思ってた。
私は野球部の皆にひどい事をした。
とり返しがつかないことをしたって、ずっと思ってた」
ああ、ベラベラとよくしゃべる。
志波くんは笑った。
「オレも…一年の時は同じこと言ってた」
「あっ…」
そうだった。
彼はフェンスを掴みながら、今の私とそっくりな言葉をつぶやいていた。
「オレは、とり返しがついた。
…だから、お前も同じだと思ってる」
「でも私、野球部を捨てた。自分から」
「オレもそう思ってた」
夜の空気の中で、私たちは見つめあった。
私はきっと、ひどく阿呆な顔をしていただろう。
志波くんは私から少し目をそらし、言った。
「…こんなこというガラじゃねぇけど、オレは、お前の気持ちがわかってるつもりだ。
オレも昔、野球を放りだして逃げた。
だからこそ、今、お前に言えることもあると思ってる」
彼はずるい。感情が表に出ないから。
「…本当だったら、甲士園で優勝する所を見せてやりてぇけど、
さすがに相手が相手だから、保証ができねぇ。
だから、代わりにオレが試合でホームランを打てたら…お前にやる」
志波くんの言葉に、私は耳を疑った。
ちょっと待って。可能性が確信の方に転がっていってしまう。
私は勝手に動揺しすぎて、彼にチョップでもしかねない状態だ。
ど、どうしよう、この状況―
彼は私が固まってるのを見て、やれやれという顔をした。
「…ま、お前だからな。あせっても仕方がねぇ」
意味深なのか、そう見せかけて実は無意味な言葉なのか―
志波くんは立ち上がり、私に言う。
「…帰るか。送ってく」
私は落ち着きなくうなづいて、その場を立ちあがった。
二人で公園を後にする。
帰る途中の短い時間で、私は彼と話をした。
「そう言えば、ハリーとはるひ、甲士園応援しに行くって言ってた」
「…ああ。ありがてぇ」
ここで「実は私も誘われたんだ」などと言ったら、嫌な女になってしまう。
でも、本当は言いたかった。
ひどい話ではあるが、志波くんの意見を聞きたかった。
「……」
彼はしばらく無言だったが、はっきりと言う。
身長の差がありすぎて、上を向かないと顔が見れない。
私は顔を、正面から動かすことが出来なかった。
「交通費とかあるから、お前に『来い』とは言えねぇ。
でも…見て欲しい」
私は無言で、ごくりと息を飲む。
家の前に付くと、志波くんは「じゃあな」と言い、
「…頑張ってくる」
と言葉を足して帰っていった。
私は家に入ると熱があるような気分で階段を上り、自室に戻る。
そしてベッドに一気に倒れこんだ。
両手をグーにして、ボムボムボムと枕両脇に打ち込む。
下に家族が居なかったら、
「ああああああーっ!!!!」
と叫びたい気分だった。
―どうして今なの
なんでこんな、ジェットコースターのようなタイミングでやってくるんだろうか?
でも、甲士園は今しかない。
それにあそこまでまっすぐの球を投げられて、見逃すのは卑怯じゃないか。
一人で気持ち悪く、こうつぶやいた。
「志波くんと…仲直りできた」
嬉しい。でも―
私は考えようとする。
煮すぎたシチューのように、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
誰かがこう教えてくれた。
「チャンスの女神は前髪しかない」
私は、自分がその資格があるのかを自問自答する。
でも、考えたって答えが出るようなことではない。
「……」
横目で押し入れをチラリと見た。
あの中には、どっかの人に買ってもらったガラスの灯台ランプが入っている。
彼に刻みつけられた傷は、まだ完治していない。
恋とか付き合うとか、そういう単語を聞くと
お腹が少し痛くなるのだ。
でも、過去ばかりを見て生きていて良いんだろうか?
そのうち、あの人のようになってしまうのではないか?
見えない「何か」に異様に怯え、子供のように逃げていて、
泣きそうな眼をするあの男のように―
私は彼の目を思い出した。
むきだしの、無防備すぎるあの瞳。
狙ったように、胃のあたりにキリキリした痛みが走った。
が、あれは演技だと自分に言い聞かせる。
あの人のことは、忘れよう。
私は未来に生きなくちゃ―
いや、つうか、まだ告られたわけじゃないし
これで単なる思い込みだったら本気で恥ずかしいから
算段は、告白されてからすることにしよう。
私は両親のいる一階に降り、相談を持ちかける。
そして30分後、自室に戻ってはるひにメールを打った。
「甲士園:
夜遅くにごめん。
甲士園、応援に行くことにしました。
もしご迷惑じゃなかったら、
お言葉に甘えさせてもらっても
大丈夫でしょうか?」
この文面を送信して即時に、
はるひから喜びの声でいっぱいの電話がかかってきた。
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志波が久しぶりに出ました。
この連載のデイジーは、よくベッドでバタバタしている印象があります。
2010.5.16
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