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家の玄関に入った瞬間に、大粒の涙がぼとぼと落ちた。
自己嫌悪で気絶しそうだ。



あの後、私達はすぐに店を出た。
私の表情は通夜であり、そんな私を見て志波くんは沈痛な表情で言った。
「…悪い。今日はこのまま帰らせてくれ…」


本当なら、いくら土下座しても足りないくらいなのに
志波くんは優しすぎる。

その優しさが、いっそう私に突き刺さる。
私みたいな人間は、時速100キロの豆腐の角に頭をぶつけて死ねばいいんだ。


洗面所に行き、くずれきったメイクを落とす。
ひどい顔。お化けだ。


私は重い体を引きずり、自室のベットに倒れ込んだ。





今日のことを消せるなら、本当になんでもする。
日比谷さんと島田さんに何回でも謝りに行くし、
土下座だってしてみせる。

きっと明日学校に行ったら、今日の事が噂になってしまっているだろう。
一介の女子高生が、はば学の伝説の投手を侮辱したと―

それは確かに真実なのだから、
どんなに責められてもかまわない。

私がした行動は、まったく酷いものなんだから。





だが―
私の脳内をかすめているのは、そんなことではなかった。

ひとつは志波くんに対する贖罪の気持ち。



そしてもう一つは―

私はまだ、太郎くんのことが好きだったということ。

あの場においては、私は太郎くんの代弁者として行動してしまった。
太郎くんが可哀想で可哀想で、仕方がなかった。
私は太郎くんの鏡となり、彼の本当の気持ちを吐露していたのである。

思えば私と太郎くんは、何とも不思議な関係だ。
嫌われたくない故に、私は太郎くんの望み通りに動いた。

野球部とアンネリーをやめ、アルカードで働いた。
私が彼の言うことを聞けば聞くほど、彼は嘲笑でくるんだ憐憫の眼差しを私に送った。

―ねえ、もうやめようよ?

と言うような。




しまいには、私が辛いと勝手に思い込み
もうこんなことは辞めてくれと言わんばかりに、海辺で彼は叫んだ。

『辛いのは君だ! 僕じゃない!!』




太郎くん。
ねえ太郎くん、今ならわかるよ。


太郎くんは、自分を私に重ねていたんだね。
きっと昔、『マドンナ』に同じような事を強制されたんだね。
だからこそ私を見てて、自分の傷がえぐれてしまったんだね。

私達は、向き合わせの鏡だったんだ。

太郎くん、会いたいよ―
今なら、今なら本当に何もない状態で、私達は話しあえる。

砂場のトンネルで、しっかりと手をつなぐ事だってできると思う。





だが、全てはかなわぬ夢だった。
もう太郎くんには二度と会えない。

私が彼を、切ったのだから。






そして志波くんにした仕打ちを考えると、余りのひどさに私は泣いた。

ごめんなさい。ごめんなさい。
どう謝っていいかもわからないし、どうやっても私のしたことは消せないけど。
こうして苦しさにもだえることしか私にはできない。

私は一体、何回志波くんに酷い事をすれば気がすむんだろう。
彼の人生の上から、姿を消した方がいいんじゃないか―








絶望する私にも、容赦なく翌日はやってきた。

学校に着いても、特に何も異変は感じない。
噂はまだ広がってはいないようだが、学校中に知られるのも時間の問題だろう。

もっとも、否定しようのない事実なのだがら
どんなにきつい事を言われても、受け止める覚悟は出来ていた。


体育の授業に行く途中に、廊下ではるひとすれ違う。
「どうしたん? 何か今日、元気ないやん」
一目見るなり彼女はそう言ってくれたが、私はそんなことないよというだけだった。

真実なんか、言えないよ。

そうだ。私ははるひとハリーがせっせと築いてくれた、
様々な機会をも無駄にしたのだ。
炎天下での甲子園での、まさかの試合観戦。

私はバカだ。本当にバカだ。
でも一番バカなのは、昨日からずっと
頭の中に浮かんでくる人物が、太郎くんであることだ。
そしてそれを、拒絶することはもうできなかった。



体育の授業はハードルだった。

準備は皆でしたものの、一度に走るのは四人だけなので
待ち時間はまったく楽なものである。ただ座って見てればいいだけなんだから。

私が一人モードに入っていることを察したのか、いつも話す友達も近寄っては来なかった。

ととととと、ぴょん、ととととと。
四人の女子高生たちが、ハードルを越えていく。

上手い人もいれば、下手な人もいた。
一人の子なんか、全部のハードルを倒しながら走っていく。
もっとも私も、運動神経が良い訳じゃないから人のことは言えないが。


ハードルがガタガタ倒れる音を聞いていると
ふと、ある言葉が耳に飛んできた。

『それ。どこに持っていくんだ?』

志波くんの声だった。

いきなりのことに、私は愕然とする。
何、この言葉―
聞いた覚えがない。妄想だろうか。

いぶかしがって記憶を探り始めると、小さな突起に引っかかった。
志波くん、ハードル、倒れる音…




「…!」
言葉にならない声を出す。


妄想なんかじゃない。
私は聞いた、この言葉を。

初めて志波くんとあった時。
二年半前に…この校庭で、聞いたのだ。




一年の5月。
私が校庭のハードルを一人で片づけていると、
志波くんが「運ぶからよこせ」と声をかけてくれたのだ。

それが、私と志波くんとの出会いだった。

私が遠慮していると、彼がハードルを強引に取ろうとした。
その結果バランスを崩してしまい…
私の唇が、彼のそれと重なったのだ。

私は呆然としたが、彼は事故だから忘れろ、と言って帰ってしまった。



本当に忘れていたことに、私は愕然とする。
自分の器の狭さを、痛感させられた。




ファーストキスは、二年の11月に
太郎くんと商店街に行った帰りに、事故でしたあれだと思っていた。
そしてその出来事が、卒業式にふられるまでのあの期間、
太郎くんへの思いを一層強める要因にもなった。

―事故とはいえキスまでしたのに、どうして他の子と一緒の扱いなの
 酷いよ、酷いよ、太郎くん…と。



もうひとつ、今度は別の声が蘇ってきた。
『ファーストじゃねえだろっ! オマエはもう、ファーストキス済だ!』
ハリーの声だ。
今年の元旦、初詣に行った帰りに聞いた。

確か、どうしてそんなに太郎くんのことが好きなのかと聞かれ、
「ファーストキスの相手だから」と答えた時の返事だと思う。

ハリーは、知っていたのだ。
私のファーストキスは、志波くんだったと。

だからこそ、あんなにハリーは…


針谷幸之進という人間が持つ義の心を再認知し、
私は唇をかみしめる。


そして、志波くんは…
この事実をずっと隠していた志波くんは…










「こらぁ! 小野っ!! お前の番だぞっ!!
 さっきからずっと呼んでんだろ!」
私の思考は、体育教師の大声で遮られる。

見てみると私の列の三人が、スタートライン前で私を待っていた。
私は一人座って、思案の中に潜り込んでいたのだ。
相変わらずの残念クオリティである。





昼休み。

あらゆることがいっぱいで、遠回しなことなんかもうできない。
罵られるなら、それで良い。

だが、それでもかなり勇気がいった。
自己嫌悪が頭をよぎる。よくまぁ来れたもんだ、という感じであった。
志波くんのクラスに向かった。


姿を見かけなかったので
クラスメイトに志波くんはどこにいるかと訪ねた所、
今日は休んでいる、と言われた。

どうも、風邪をひいたらしい。




「そ、そうですか…」
落胆とも、安堵とも言えない奇妙な気持ちが私を襲った。

興奮が引けた体を、奇妙な冷えが襲った。
昨日のことが蘇ってくる。
一時的に気持ちが高ぶってたからとはいえ、どうして私は彼の教室になんか来れたんだろう。

もしかしたら、昨日のことがショックで学校に来てないのかもしれないのに。
君は本当に自分勝手なんだね、と誰かが耳元で言った気がした。




午後も重苦しい気分で乗り切った。
授業の内容は右から左にすり抜ける。









結局何も成さないまま、私は学校を出た。
道路を歩いている途中で、急にカバンが揺れる。
携帯のバイブ音。三回で切れる。メールだ。

携帯を開けると、私は息を飲んだ。
メールを送ってきたのは
今、最も会いたくて、でも会えない人からだったのだ。


『無題:
 さっき島田さんから電話があった。
 昨日の約束通り、オレに練習を見せてくれるらしい。
 昨日のことは、もう怒ってないって言ってた。
 だからもう気にすんな』


志波くん。
送信者の名を見た瞬間に腰が抜けたが、
内容はもっと腰が抜けた。

島田さん、もう怒ってないって…
ありえないだろ。
どんだけ心が広いんだ。


返信文をどうしようか悩んだが、
彼にまかせるという卑怯な手を取ることにした。


『そっか:
 正直、安心した。でも、本当にごめんね。
 機会があったら、私からも日比谷さんと島田さんに謝るから…

 あと、風邪引いたって本当?
 もし迷惑じゃなかったら、お見舞いに行っても大丈夫?』

メールを送信して、一分後に返事が来る。
『Re:そっか:
 うつるかもしれねえぞ?
 でも、そっちがいいなら、来てくれると嬉しい』

私達は、話をしなくてはならなかった。
良くも悪くも、あらゆる意味で。

私はスーパーに寄り、風邪の志波くんが食べそうなもの(想像が難しいが…)を買う。
とりあえず栄養がありそうな、チーズとか小魚ピーナツとか。
少し自分のセンスに絶望したが、志波くんが果物を食べている様子がなんか想像できなかったのだ。



志波くんの家に行ったことは、玄関までなら一度だけあった。
野球部にいた頃だ。練習が終わって、皆で一緒に帰った時。


玄関のチャイムを鳴らすと、ドアが開いて志波くん本人が出てくる。
「…よう」

風邪というのは本当だったようで、少しだけ顔が赤い。
「おはよう。来てから言うのも何だけど、寝てなくて大丈夫?」
「7度3分位だから、そんな大した熱じゃねえ。
 一応ってことで、休まされたんだ。
 …お前こそ、うつらないように気をつけろ」

家には志波くんしかいないようで、そのまま部屋に通された。
初めて入る部屋に少しだけ緊張したが、
「風邪なんだから!」
と、強引に志波くんをベッドに座らせ
(何故か、彼は恥ずかしがって布団に入ってはくれなかった)
向かい側に椅子を持ってきて腰かけた。

私の買ってきたものを見て、彼は笑う。
「…お前…これ…小魚って…」
「か、体に良いんだよっ! 何か栄養つくものがいいかなーって思って…」
「で、これを買ってきたのか?」
「もーっ! 笑わないでっ!!」

ひとしきり空気もとけた所で、私は本題を切りだした。
「…昨日は…ごめん。本当にごめんなさい」
申し訳なさが、体中を支配する。
「…気にすんな。結果的にも影響はなかったんだ」
「そんな…ねえ、島田さんから電話があったの?」
「…ああ。ちょうど四時頃に」
「どんな内容?」

私の質問に、彼は少し目を伏せる。
「昨日は感情的になって、悪かったって。
 日比谷さんも怒ってないし、練習を見学する方向で、進めて欲しいって言ってたな」
「…怒ってないって」
瞬時に、そんな訳ないと思ってしまった。


初対面の高校生から、どこの誰とも知れない人間と比べられ、
挙句の果てに理不尽にキレられたのである。
これで怒ってないとしたら、嘘つきかバカのどっちかだ。

「どうして…許してくれたの…?」
思わずもれたつぶやきに、志波くんが呼応するように言った。

「…日比谷さんが言ってたらしい。
 人のために、本気でキレることのできる人間に、悪い奴はいないって」

あまりにも王道の理屈を提示されて、一瞬呆けてしまった。
私の顔を見て、志波くんがクスッと笑う。
「…答え、もう出てんだろ?」
「…?」

志波くんの瞳は、優しい色をしていた。
「お前が大事にしてるのは、オレじゃなくて真嶋だ。
 …オレとしては悔しいけど、仕方ねぇ」
それは、私が目をそらし続けていた真実だった。



「……」
私が何も言えずに下を向いたが、すぐに言葉をつむいだ。
「志波くん、あのね…
 …一年の五月に…校庭で…」

彼の顔が、少しこわばった。
ああ、やっぱり。隠していたんだ。

この二年半。ずっと、ずっと…

私が太郎くんを気にかけ出した時も、野球部を辞めた時も
真咲先輩から『マドンナ』事件の真相を聞いた時も、昨日の私の激昂の時も。
ずっと、彼は知りつつ押し黙っていたのだ。


「私…それ…忘れてて…
 で、今日…体育の時間がハードルで…それで思い出して…!!
 何で忘れてたか…自分でも信じられないんだけど…

 私…今までずっと…志波くんに酷いことしてて…!!」

思わず涙目になった時、大きな手が、グワッと私の頭を包んだ。
触り方は少しあらっぽかったが
指や手の平からは、暖かな不思議なものを感じた。

顔を上げると、志波くんが笑っていた。
こんなに近くで、この人の笑顔を見つめるのは初めてかもしれない。

彼は言う。
「…オレはあの時から、ずっとお前が好きだった」

部屋の時が止まる。
ああ、とうとう聞いてしまった。



「お前がいるから、オレは野球部に戻ってこれた。
 とっくに諦めてた、甲士園にも行けた。

 あの出来事には、感謝してる。
 あれが無かったら、お前と知り合えなかったかもしれねえ」

私は大層ぐしゃぐしゃの顔をしていただろう。
どうして、志波くんじゃ、ないんだろう。
志波くんの方が、良いに決まってるのに

彼の言葉は続く。
「…オレには、野球がある。
 でも、真嶋には…何も無いんだろ?

 お前が真嶋の隣にいって、あいつの空洞を埋めてやれ」

私の口から、嗚咽が漏れた。
彼は、全てを知っていたんだ。

手で涙をぬぐうと、志波くんが「ほらよ」とティッシュを渡してくれた。
お見舞いに来たのに励まされている。


「志波くん…私、太郎くんが好き…
 あんなどうしようもない人なのに、それでも目を離すことができない」

私の言葉に、彼は失笑する。
「そんなもん、とっくに知ってる」
 …はば学の伝説の投手に対して、あいつのためにキレる位の度胸があるんだ。
 お前なら、きっと真嶋を助けてやれるだろ」
「…ありがとう」


ここを境に、私達は完全なる友人に戻った。


志波くんは「何かあったら、またニガコクに来い」と言って、
私を玄関まで見送ってくれる。


「…風邪、うつってたら悪いな」
「大丈夫。バカは風邪ひかないから」

私の言葉に、志波くんはいやに明るく笑った。
若干むくれた私は、彼を殴るふりをする。


「またな」
「うん。ばいばい」
私は手をふって、笑顔で志波くんの家の前から去った。

夏の余韻を残した夕空はまだ明るい。
その曇りない空を見て、私は志波くんに感謝した。

これからも、これまでも
こんな私と友達でいてくれて、ありがとう。






私はこれから
あのどうしようもない、卑怯で臆病者で
人間という存在に、小指一本で泣きながらひっついている
太郎くんを助けに行きます。

拒否されるのなら、それでもいい。
戦ったという証だけは残したい。


私が目指すものは、もはや太郎くんへの道のりだけだった。

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志波は友情エンドです。
志波にも救いを用意したくて、
野球復帰と甲士園優勝というものを用意したのですが…

デイジーとは今後も、ハリーも交えた親友的な付き合いをしていくと思います。




2010.12.31

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