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床に置いてあったバケツを、うっかり左足で蹴って、
ひっくり返してしまったのだ。
じゃぶん、という水音が響いて、
店の茶色いタイルが濃い色に変わっていく。
「す、すみません!」
私は自分のミスに困惑し、申し訳なさをいっぱいにして
店裏から水掃除用のゴムぼうきを持ってきた。
うつむきながらほうきを握り、水を隅っこの排水溝へと持っていく。
閉店間際で、幸いにもお客様はいなかったものの、
もしもお客様がいたら大迷惑もいいところだ。
「おいおい、先週もこぼしただろ…
どうしたんだ最近。何か元気ないんじゃないか?」
バイト先の先輩の真咲さんが、私を見てけげんな顔をした。
「え、そうですか?」
真咲先輩の言葉に、私は首をひねった。
「でも、凡ミスが多いのは…認めます」
「認めるなら、な・お・せ!」
真咲先輩は、ちょっときつい口調で私に言う。
もっともだ。
無意識のうちに、自分に甘えを作っていた。
みっともない。
元気なく床にほうきを滑らせている私に向けて、
店の外からから店内に鉢を運んでいる真咲先輩が
ふーと溜息をつく。
「ま、高校生もいろいろあるわな…
なんかあったら相談は受けるぞ?
それに…良かったらカフェ丼のレシピを教えてやらないこともない。」
「え、カフェ丼!? 本当ですか?」
私の空気を読まないはしゃぎ声に、店の奥から声が飛んできた。
「真咲君、小野さん、大声で無駄話はしないで。
まだ営業中でしょ」
「あ、すみませーん…」
その声に向かって、私達は頭を下げた。
声の主は、アンネリーで一番古いバイトの有沢先輩だ。
私より四つ上で、一流大学に通っている、メガネの綺麗なお姉さん。
すごく頭がよくて仕事ができるので、お店の皆から頼りにされていた。
一緒に怒られた真咲先輩は、有沢先輩よりも一個下の大学二年生。
私と同じはね学の出身で、いろいろな共通項を持っている。
私の知らない時代の、若王子七不思議の話なんかも教えてもらえた。
力仕事と配達担当で、気さくで優しい先輩だ。
私はひそかに、従兄弟のお兄さんみたいだと思っている。
今日のシフトは私と真咲先輩と有沢先輩。と、奥の店長。
店長は奥の方でパソコンとにらめっこしていることが多いので
表にはあまり出てこない。
私が一年生でバイトを始めた時から、この二人の先輩には良くしてもらっていた。
大好きなバイト先である。
だから、きちんと仕事をして、迷惑をかけないようにしたいのに。
私の凡ミスの原因は、太郎くんにあった。
いや、太郎くん自身に罪があるのではなく、
私の意識が仕事よりも太郎くんに向かってしまっていたのだ。
ここ一か月は特に。
テンションがとち狂ったあの出会いから、すでに五か月が過ぎていた。
その間に真嶋先輩は「太郎くん」になった。
正確にいうと、少しだけ私たちは進展していた。
五月の初めにまたも偶然に、太郎くんの破局の場面を除いてしまってから
彼は私に心を許し始めた。
休み時間にふらっと私の教室によったり、思い出したかのように
一緒に帰ろうと誘ってくる。
六月末に太郎くんは階段で私にカレーパンをねだり、
その流れに任せて私をデートにさそった。
そしてそのデート先で、私に呼び名の変更をお願いしたのだ。
私がぎこちなく「太郎くん」と呼ぶと、彼はさわやかに笑って
「ありがとう」と言い、
私の手を握った。
太郎くんの手はひんやりとしていて、本当に人じゃないようだった。
私達は手をつないで、数分歩いた。
七月の強い日差しの中、手が汗ばんで汗ばんで、
気持ち悪がられたらいやだと思うと気が気じゃなかった。
私の隣を歩く太郎くんは、やっぱり体の構造が私とは全然違くて、
すごく「男の人」を感じさせて、本当に緊張したのだ。
男の友達は何人かいるけど、あんな私をどきどきさせる人はいない。
同い年の友人たちとは、時折一緒に帰るが、
彼らは大抵さばさばしすぎていて、
私が彼らに異性を感じることは少なかった。
しかも太郎くんは、デート中に「カップル」という単語を使ったのだ。
そして、私たちをそこに当てはめた。
すごく緊張した。
自分は女の子なんだなぁと、気色悪いながらも自覚した。
でも、そこで太郎くんとの接触は途絶えた。
夏休みに入ってしまったのだ。
私は野球部のマネージャーをやっているので学校には来ているが、
そこには、当然太郎くんの姿はない。
もとより、携帯の連絡先も聞いていない私が馬鹿だった。
お互いの教室が近く、同じ建物内にいるという油断が私をたゆませた。
遊くんに聞いても「真嶋太郎なんて人は知らない」と言われるし、
今となっては新学期の始まりを待つしかない。
でも、正直すごくいらいらする。
太郎くんはひどく気まぐれで、その上でそれを許してもらえるすべを心得ていた。
あんなにかっこいい人が、
私みたいなどうでもいい小娘にずっとかかわっている訳がない。
遊ばれてるんじゃないか? という疑問が頭をもたげる。
手までは取られた。じゃあ次は
でも、私は自分のために、必死でそれを否定する。
太郎くんは受験生で忙しいから、夏休みは勉強に集中したいんだ。
だから多分、あえて私の連絡先を聞かないだけだ。
でも私には、わかっていた。
その証拠に、女友達には何の相談も持ちかけていない。
絶対に否定されるから。
「遊ばれてるんだよ、やめときな」
竜子さんの反応が目に見える。
彼女はそうだ、いつも物事をしっかり見て、
戸惑いの余地もなくさっぱりと切り捨てる。
しかもデートをした直後から、
太郎くんの悪い噂が校内中を漂っていることを
私はようやく気がついた。
彼の女の子関係は、ひどく乱れているというものだった。
でも、詳しい内容は聞いていない。
聞くと色眼鏡が入るから。
私は常に公平でありたい。
太郎くんの口から聞くまでは、私は彼に色セロファンは張らないつもりだった。
だって私は、太郎くんの味方だから
早く夏休み、終わらないかな…
私は高校生としてあるまじきことを考えながら、
店のドアを閉め、内側からかけられている看板を[closed]にした。
八時。
本日はこれにて営業終了だ。
「おしっ! 本日も無事終了!!」
真咲先輩が明るい調子で叫び、ポンと手を叩く。
「小野さん、お疲れ様。今日はもう帰っても大丈夫よ。
レジ閉めは店長と私でやるから。
真咲君もあがって良いわ。小野さんを送ってあげて」
有沢さんはそう言いながら、店内のBGMを止めた。壁にスイッチがある。
「へいへい」
真咲先輩が笑って応じる。
この二人、本当に良いコンビだと思う。
つきあってたり、してないのかな。
そうだったら楽しいのに。
私は店の狭っくるしい女子更衣室で急いで私服に着替え、
アンネリーの従業員玄関から外に出た。
夏の陽気が、むっと肌にしみてくる。
店内にずっといると、無意識に肌がクーラーの温度に慣れてくることを思い出した。
自販機の横に立つ、長身の影。
真咲先輩はもう待っていて、私を見つけるなり
持っていたオレンジジュースの缶をぎゅっと私の頬に押しつける。
ちべたい
「ひっ!」
私が予想通りの声を上げると、真咲先輩はニッと笑った。
「ほれ、やるよ。お疲れさま」
「ありがとうございます、でも、こういう不意打ちはちょっと勘弁してください…」
私の言葉に、先輩は「そうかー、涼しかったかー」と返してきた。
二人っきりで、夜の道をとてとてと歩いていく。
先輩は車を持っているらしいが、アンネリーでは車での出勤は禁止されているので、
もっぱら徒歩で店に来ていた。
私も徒歩通勤なので、途中まで送ってもらっている。
先輩は、とても優しい。
私は一人っ子だが、お兄さんってこんな感じなのかなーと、
常日頃ぼんやりと思っていた。
今日は他県で大きな花火大会があったらしく、
ときおり、帰りの道中らしき浴衣の人を見かけた。
夏の風物詩だ。いいなぁ。
「真咲先輩」
私の放った言葉に、先輩は軽くこっちを見る。
「ん?」
「先輩は、このまま家に帰るんですか?」
「いや、今夜は徹カラ」
「…強いですねー」
雑談は、夜の空気にくるまれ消えていく。
でも、次の言葉がぽちぽちと生まれてくる。
「そういえば、志波くんが野球部復帰したんですよ」
「へえ、そうなのか」
私の言葉に、
勝己がなァ…と先輩は目を細めて満足げな顔をした。
「志波君、炎天下で毎日頑張って練習してるんです。
今年は、はば学に甲士園出場はとられちゃったけど…
来年こそは出てみせますから」
私がガッツポーズ作ると、先輩は目を閉じて、ふふん、と笑う。
「何がおかしいんですか?」
私の問いに、先輩はこう返した。
「いや、あいつもやっと本来の場所に戻ってきたなーと思って」
真咲先輩の言わんとすることが何となくわかった。
うん、最近の志波君は、本当に生き生きしている。
私は満足げな気持ちで、黙ってジュースのプルタブを開けた。
オレンジのつぶつぶが口いっぱいに広がる。
平和だ。
平凡な日常だけど、
ここで一句読めるくらい、私の日常は充実している。
でも私は、太郎君にかきまぜられた跡が気になって仕方がなかった。
彼の最初の姿が、今も脳裏に焼き付いている。
痛々しい、翼の折れた荘厳な鳥。
…時を経るにつれて、私の中で、二人の出会いが無駄に大仰なものになっていた。
多分、時間と自分酔いの相乗効果だろう。
恋愛って怖いね!
その時だった。
視界のほんの隅っこ、マッサージ屋の曲がり角で、太郎君らしき男性が見えたのだ。
あの髪型だ、見間違えるはずはない。
「たっ…」
私が人影の方に目をやると、それはすでに消えていた。
どこかの路地に、入ってしまったのだろう。
ふい、とまるで猫のように。
「…?」
隣で、不思議そうな顔で私を見る真咲先輩。
「何か、知り合いでもいたのか?」
「いえ、たぶん別人です」
かなり鋭い先輩の感覚に驚嘆したが、私は残念そうに首をふる。
でも、内心あれは太郎くんだと確信していた。
声をあげて追ったら、空気知らずも甚だしいから自制するけど。
彼は嫌うよね、そういうこと。
私のこと、気がつかなかったんだ。
この暗闇だから、無理はない。
いや、もしかして…
私と真咲先輩のことを、カップルだと思ったのだろうか?
すーっとしたものが内心を駆け巡った。
そうだったら、一大事だ。
新学期に誤解を解かないと。
真咲先輩は大好きだけど、そういう存在なわけじゃない。
真咲先輩は、有沢先輩とすごくお似合いだと思う。
私の入れない大人の世界。
早く九月になってほしい。
そうすれば、いつでも太郎君に会えるのに。
→第三話
私もこの二人は大好きです。
2008.7.27
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