←Teru
21
佐伯くんからの手紙を読んだ後、
私はランプをぎゅっと抱きしめた。
太郎くんは、私との再会を望んでいた。
彼は灯台に行っていたんだ。
私達がわずかに通じ合った瞬間に、夜空に走る一筋の光。
太郎くんも、あれを覚えていてくれたんだ。
―私と太郎くんは、同じ風景を見て、同じものを求めていた。
まるで、向かい合わせの鏡のようだった。
やっとより合わさった奇跡に対し、
私は思うことがあって目を閉じた。
私と太郎くんの切れかけた糸を、このランプと珊瑚礁がつないでくれた。
そして本棚の一番下の段から、小さな辞書を取り出す。
二年生の夏ごろ、まだ太郎くんに夢を見まくっていた時期に
古本屋で買ったギリシャ語辞典だった。
和英辞典のように、日本語からギリシャ語の単語を調べられる。
『鏡』という単語を引くと、
"Kathreftis"
と出た。
読み方は全くわからなかったが、英語より硬い文字の並びの、謎の神秘性に心を少し奪われる。
―太郎くんはきっと、私が彼をギリシャ彫刻みたいだって
思ったことなんか知らないだろうな
明日、私は高校を卒業する。
佐伯くんの手紙に従うならば
卒業式の後、私が行くべき場所は決まっていた。
お互いの連絡先も知らない私達が、出会えるならば、
もう、それは「伝説」と言ってしまっていいだろう。
もしも私達が、人魚伝説の後を描く資格があるのなら。
灯台の光が私達を導いてくれるだろう。
この空の下、太郎くんはどんな思いで明日を迎えるのだろう。
彼と会える気もしたし、
やっぱり会えないかもという不安で胸がガクガクした。
結局の所、明日全てが分かるのだ。
3月2日。
この日をもって、私の高校生活は終了する。
『卒業式』と書かれた看板を見ると、
見慣れているはずの校門も、何だかうやうやしく感じられた。
式典中、校長先生の話を聞いている時でも、
まだ卒業の実感はわかなかった。
私の高校生活は、決して平穏なものではなかったし
完全に満足できるものでもないと思う。
だがこういうことは、もっと時が経って
大人になってから、はじめて自分の過ごした日々の価値がわかるのではないだろうか。
そうだ、ちょうど一年前に私の学生生活は急展開したのだ。
私は二年生として野球部の先輩達を送り、甲士園に行くことを誓った。
そしてその直後、太郎くんに告白して振られた。
この一年は、本当に怒涛のようだった。
私は変わったのかもしれないし、結局変わらなかったのかもしれない。
それは、自分ではわからなかった。
式典が終わると、私達は教室に戻る。
『13時まで校内からは出てはいけない』という謎の規則は、今年も適応されていた。
私のような無所属の人間は、クラスの仲間と話したり
他のクラスに遊びに行って、記念撮影をしていた。
部活に入ってた子たちは、そっちの卒業セレモニーに出ているのだろう。
志波くんも今頃、野球部の部室にいるはずだ。
さっちゃんが両手いっぱいの花束を抱えて、卒業生の前に立っているのだろう。
クラスの友達と卒業アルバムに寄せ書きをしたり、
色々話しているうちに、時計はあっと言う間に13時を回った。
「夜にみんなで卒業記念の食事会をファミレスでやるから、良かったら来ない?」と
クラス委員の子から誘いをもらったが、
「ありがとう。でもちょっと用事があるから、行けたら連絡する!」
と言い、私は教室を飛び出した。
―食事会は、行けたらできるだけ行きたい。
でも、太郎くんには絶対会いたい!!
教室を出てすぐに、聞き覚えのある女の子の声が耳を捉えた。
「美奈子先輩!」
声の方をみると、小柄でふわふわの天使みたいな髪をポニーテールにした女の子が、
色紙と花束を持って立っている。
彼女を見た瞬間に、私の胸は熱くなる。
「…さっちゃん」
二年生の最後にやめてしまった、野球部の後輩マネだった。
さっちゃんは少しはにかむように笑い、こう言う。
「…先輩、これ…今の二年生で書いた寄せ書きと、
アンネリーさんで頼んで作ってもらったブーケです。
私の面倒を見てくれて、本当にありがとうございました。
…先輩と一緒に、甲士園にいることが出来て、良かったです…!!」
私は言葉を失う。
私は観客席、彼女はベンチだったが
確かに私達は甲士園という空間に一緒にいた。
受け取った色紙を見ると、
後輩達の言葉が、しっかりと並んでいた。
私は野球部を途中で辞め、最後まで戻ることはなかった。
不肖以前に、失格級のマネージャーだったのに。
私の方を見て、さっちゃんは言った。
「…同級生なら、卒業しても
何だかんだで会えるじゃないですか…。
でも学年が違うと…
特に美奈子先輩には、なかなか会えなくなると思って…
私達、甲士園に行って優勝しました。
一年前にした約束、守りました」
「…知ってる。凄いよ、皆…」
私は素直な感想を述べた後、感情がこみあげるのを感じながら笑った。
「約束守ってくれて、ありがとね。
私はこんな先輩だったけど…野球部に入ってたことを本当に良かったと思う…」
さっちゃんの顔がこらえきれないというような状態になり、私に抱きついてきた。
色紙と花束を抱えながら昇降口に向かうと、
見慣れた顔があった。
「ハリー」
彼は私に気付き、挨拶をする。
「美奈子か。オッス」
「オッス」
卒業証書を小脇に抱えている以外は
いつものハリーだったが、やはり少し寂しそうだ。
「…卒業したねー」
「ま、会えなくなる訳じゃねーし」
「でも、やっぱりちょっと寂しいね」
妙にしんみりしている私に対し、彼はスパッと言い放つ。
まるで自分に言い聞かせるように。
「ま、今までは横並びの世界だったけど…
でも、こっからが俺の伝説の始まりだからな!
まだ一歩進んだだけにすぎねーよ」
「お、いいねー」
私の調子に乗りすぎた返答に、彼はウルセェと少し怒る。
そして表情を真剣なものに変え、こう聞いた。
「…お前は、灯台に行くのか?」
「うん」
何の躊躇もなく、私は頷く。
「そっか…」
結末のわからない私の行動に対し、彼は小さく相槌を打ち、
こう続けた。
「ここまで来たら、最後まで行っちまえよ!
ゼッテェに立ち止まるな!
…俺、祈ってやっから」
「…ありがとう」
ハリーなりの思いやりに感謝し
靴を履いて昇降口を出る瞬間に、
「お互い、卒業おめでとう!」
と叫んだ。
私の言葉を受けて、ハリーも叫ぶ。
「次のライブも、ぜってー見に来いよ!
俺は不滅だ!!」
高校時代というのは、すごく恥ずかしくてまぜこぜで
泣いて笑ってぐちゃぐちゃで、
というか今まさに自分が青春年齢の真っただ中にいるから何とも言えないのだが、
やっぱり思うのだ。
―青春っていいなぁ、って。
卒業証書と色紙と花束を、持参してきた紙袋に入れ、
私は走った。
入学式の日、灯台の近くから学校への道を、
遅刻しないように慌てて走った。
今、ちょうどそれと逆のことをしている。
走っているので、視界がガクガク揺れた。
入学式の時と違う所といったら、
桜がまだ咲いていないことだった。
海に近い道を走り続けて、流石に疲れる。
走ることが出来なくなったので、早歩きに変更した。
恰好も乱れているし、髪の毛も一応きちんとしてきたのにぐちゃぐちゃだ。
家に一回戻って、自転車に乗った方が早かったと気がついたが、
もうどうしようもない。
だが、羽ヶ崎の灯台が視界に入った瞬間に、俄然テンションが上がる。
…見えた!
私の足は、加速する。
視界の端に、閉店してしまった喫茶珊瑚礁が入った時は
一瞬足を止めて、
佐伯くんとマスターに心の中でお礼を言った。
今、向かってます。
太郎くんはきっと、沈んで迷子になってる若者なんです。
だから、私が助けに行きます!
灯台に続く急な斜面を何とか上がりきり、息を切らしながら大灯台の前に立った。
こんなに近くに来たのは、それこそ入学式の日以来だ。
その佇まいこそ、三年前と全く変わっていない。
微妙に古びた白い壁、どこかぬくもりのある雰囲気…
いや、一つだけ違うところがあった。
灯台の扉が、わずかに開いていたのだ。
私はおそるおそる扉を開ける。
中は薄暗かったが、思ったよりも埃は立たない。
―先客がいるのか
私の胸は、高まった。
目の前の壁には、人魚と若者の絵がかけてあった。
ああ、やっぱりここだったんだ。
階段を一段一段昇って行き、展望台へのドアを開ける。
日の光を受けた海が一面に広がっていた。
が、全ての光景は、私の前で無になる。
「…ここにいれば、会えるかと思った」
この声、この顔、この雰囲気。
太郎くんが、海を背にして微笑んでいたのである。
夢でも幻覚でもなかった。
その顔は穏やかで、本当に無防備であった。
私にはわかる。思い上がりかもしれないが、私にはわかる。
太郎くんだ。仮面をかぶってない、本当の太郎くんだ。
こんな穏やかな顔は、この灯台の光を二人で見た時以来だ。
「卒業、おめでとう」
優しい口調の太郎くんの言葉に返事をせず、私は彼に抱きついた。
「…!!」
戸惑う彼に対して、ひたすらこう叫ぶ。
「太郎くん、会いたかった…
会いたかった!
会いたかったっ!!!!」
太郎くんの手は、放心したように宙ぶらりんの状態だ。
傍から見れば、かなり不思議な光景だろう。
でも私はこの7ヶ月、音信普通になる前を入れれば二年間
ずっと心に彼を住まわせてきたのだ。
そして日比谷さんと島田さんとのトラブルの時に、自分の心を知ってしまった。
もう、自分に嘘はつけない。
ひたすら彼を抱きしめる私に対し、やっと彼の腕が動いた。
まるで壊れ物を扱う子供みたいな、不器用でぎこちない動き。
そして小さく、震える声で言う。
「…僕はこの7ヶ月間、君に会うのがずっと怖かった…
君が僕を許してくれるかどうか、
いや、話をしてくれるかどうかすらわからなかった。
だから…今、ちょっとびっくりして…
固まってる…」
そこで一瞬我に返り、私は彼から少し離れる。
くっついたままでは、話せる話もできない。
「…あ…ごめん…」
彼はううん、と首を横に振る。
この仕草だ。
太郎くんの首の振り方だ。
私の全身を懐かしさが支配する。
彼は親に謝る幼児みたいな顔で、私に言う。
「…12月に珊瑚礁で、君にあげたランプを見た。
僕は思ったよ。君はやっぱり僕に呆れ果てたんだって。
でも、佐伯くんが色々話してくれた。
それで、考えが変わった」
―佐伯くん
私は、今はもうこの市にいない彼に対して、
全力で感謝した。
太郎くんの言葉は続く。
「…僕は、君にひどいことばかりしてきたね…。
こんなことを言ったら図々しいと思うだろうけど、
本当の僕を見て欲しい。
話を聞いたら、君は僕をもっと軽蔑すると思う。
…だけど、話さずにはいられない」
ようやく、私のテンションも異常値から脱した。
私の卒業式に彼が話したい事とは、何なのだろう。
『マドンナ』のことはもう聞いてしまった。
むしろ知ってしまって、罪悪感を覚えている状態だ。
思い余って、私は切り出してしまいたくなる。
ひどく大きな局面で、責めたくなる性分というのはかなりやっかいだ。
明日からは空気を読む。
でも、今の太郎くんは赤むけのひな鳥だ。
黙って話を聞こうと思った。
「…話したいこと?」
「…君と出会った時のこと、覚えてる?
あのちょうど二年前、僕は初めて振られた」
覚えている。
覚えてるに決まってる。
私の道は、あの瞬間から変わったんだから。
「…相手は学園のマドンナで、皆の憧れだった。
僕はそんな彼女に選ばれて、有頂天になったよ。
…でも、彼女にとっては、僕はただの所有物に過ぎなかった。
話し方や振る舞い、髪型も全部注文を付けられた。
…そして今も…彼女に付けられた癖が、消えないんだ…」
太郎くんの言葉に、私は絶句する。
『マドンナ』が、予想以上にあり得なかったから。
彼の話は続いた。
「…で、卒業式の日にあっさりふられたよ。
『卒業だから、お別れね』って。
僕は絶望したけれど、すぐにわかった。
ああ、これはゲームなんだって…
勝ち負けが全て、なんだって…
だから次々と、手当たり次第にゲームをしかけた…。
相手を夢中にさせるのは簡単だったよ。残念なくらいにね。
でも、女の子をふるたびに、僕の胸は冷たい優越感に満たされていった。
僕にはわかっていたんだ…
自分がひどいことをしてるって。
でも、こんなことをして他人を見降ろさないと、僕は自分を保ってられなかったんだ。
…僕は、完全におかしくなっていた」
もう、聞いていられなかった。
太郎くんの傷が深すぎて。
きっと彼は、人をふるたびに罪悪感を心の底で積もらせてきたんだ。
ハリネズミのように、必死で丸まっていないと攻撃できない。
私の中では、彼はそういう人である。
悪辣であろうとすればどこまでも悪辣で、
誠実であろうとすれば、お腹の柔らかい部分まで見せないと贖罪ができない。
太郎くんは、世渡りは上手いかもしれないけれど、ひどく生きにくい。
堪えられず、私は言う。
「…太郎くん…。
私、3年前の甲士園地区予選でのこと、ある人から聞いた…。
太郎くんが…甲士園行けって言われたって…」
彼の顔が、固まった。
ごめんなさい、太郎くん。
自分の言いたい事を言うために、古傷を引っ掻いてしまったのかもしれない。
でも、これだけは言いたい。
「…私は…太郎くんがいい…
ううん、太郎くんじゃなきゃ嫌だ…」
目をつぶって叫ぶ。
「誰かと比べてどうとか、どうでもいい!
他の人となんか、比べない!
太郎くんと一緒にいたい!」
辺りに沈黙が広がった。
何かとんでもない地雷を踏んでしまったのかと思い、
恐る恐る目を開ける。
びっくりした。
何故なら、太郎くんの両目から、一筋の涙がこぼれていたから。
「た…太郎くん…?」
彼はしゃくりあげながら、ひどく恥ずかしそうな顔をする。
「み…みっとないな、僕は…
君の言葉を聞いた瞬間に、反射的に…」
太郎くんは、指で目じりの涙をそっとすくった。
「…僕は…本当の僕なんて…誰も好きになってくれないって思ってた…
…正直、君相手でも仮面を被らないって自信はなかった。
でも…君は…こんな僕に…
僕にもわからなかった答えをくれた…」
「…佐伯くんがね、昨日手紙をくれた」
「…佐伯くん? え… 昨日って…?」
私の言葉に、彼はきょとんとした顔をする。
どうもタイムラグがあるようだ。
やるな、佐伯くん。
「太郎くんが、灯台の近くに来てたって…
だから、今日、ここに来た」
「…本当は、灯台に行ってる途中でも
君に会ったらどうしようって、不安で仕方がなかった…
自分から行っておいて…情けないだろう?」
太郎くんは失笑する。
この人は、やっぱりオンとオフの調整が出来ないんだ。
だからいつも傷ついて、それを必死の応急処置でごまかして、
その繰り返しで―
「私ね」
言葉を切りだす。
「…人魚伝説で、太郎くんが若者だったとしたら、
旅に出ても…きつい言い方だけど…きっと傷ついて、
溺れて沈んじゃうんじゃないかって思っちゃった…」
それを聞き、彼は少し赤くなった。
勢いに乗り過ぎている自覚はあるが、私は続ける。
「だから…だから私が助けようって。
太郎くんがおぼれても難破しても、絶対に見つけるんだって」
そして、彼を見た。
「私を信用して。
私は太郎くんを助ける。
辛い時も、悲しい時もそばにいる!
太郎くんの傷は、全部半分こしたい。
私が太郎くんの人魚になる」
太郎くんは呆然としたような瞳をしていたが、すぐににっこりと笑った。
ひどく恥ずかしそうな、子供のような笑顔。
「…僕は、ずいぶん君に心配されているんだね?
でも、それじゃ格好が付かないよ」
彼はぎこちない手で、私の頬に触れた。
「…僕は情けなくて、もろくて…本当にそうだと思う。
でも、君だけは離したくないって思ったんだ。
ううん、今日、その気持ちがもっと強くなった。
君は…こんな僕を真正面から見てくれる。
だから…」
視界が海一色になる。
苦しい。
太郎くんが、私を抱きしめたのだ。
強い、強い力だった。
「今、誓わせてくれないかな。
僕は本当に弱虫だけど…
ボロボロになっても、君だけは全力で守るって」
私は両手を回し、彼をぎゅっと抱き返す。
それが、彼への返事だった。
彼は嬉しそうにくすっと笑い、耳元で囁く。
「ねえ…目を…つぶってもらってもいい?
今回は、偶然じゃない」
何をされるのかは、わかっていた。
視界を閉ざした瞬間に、柔らかいものが唇に触れたのだ。
海の波音と鳥の声が、耳に届いた。
ハリー、志波くん。
喫茶珊瑚礁、佐伯くん。
灯台型ランプに、人魚伝説…
その全てに私は感謝する。
いや、もっといっぱいの人やものに感謝する。その名前はもうあげきれない。
今はやっと太郎くんと本当にわかりあえたが、
人生は水ものだから、いつどうなるかは分からない―。
でも、もしも私と太郎くんが人生の誓いを上げる日が来るならば、
私達は人魚と若者は、やっぱりどこかで出会えたと思うのだ。
当然だが、私の人生はこれからも続く。
でも、話はここで一旦終わりにしよう。
私はここで、最後のバトンをハリーに渡したい。
何故なら彼は、ハリー様であり、
すれ違い続けた私達を会わせるために、尽力してくれた存在だから。
そして彼の回りには、人が集まるから―
→Hurry_8
太郎告白シーン…かと思ったら、
むしろデイジー×太郎くらいの勢いじゃねえの?と思いました。
このデイジー、運動パラ300かもしれません。
太郎は何か、もう泣いてぐちゃぐちゃになりそうなイメージがあったので、
僕は泣かせました。楽しかったです!
太郎は「守る」と言ってますが、太郎の出来る範囲でしか守れないだろうな…と
思います。(褒め言葉)
ひとまず、次回で最終回です。
ハリー回です。
太郎とデイジーにお付き合い頂いた皆様、ありがとうございました!
2011.3.2
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