←第三話
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「あーーーーーっ!!!!!」
私は思いっきりこう叫ぶと、天に向かって伸びをした。
「先輩、声、めっちゃデカイっすわ…」
そんな私の様子を見たさっちゃんは、あきれた様子で言う。
こういうことをすっきり堂々と言ってくるのが、この子の良さだ。
時は9月末。
場所は野球部グラウンド。
練習中の選手を眺めながら、
私達はグラウンドの隅っこにある、
木材を棒状に重ねたものの上に座っていた。
今日は、監督は来ない日だ。
秋の風に混じって、どこかから
応援部のエイオスという叫び声が聞こえてきた。
「先輩どうしたんですか? 何か悩みですか?」
エイオスの声の主は、あの天使みたいな子かな… などと妄想していると、
さっちゃんが私の顔を覗き込んだ。
そういえば、さっちゃんも天使みたいだ。
くるくるした髪の毛が、ガラス細工の天使の髪によく似てる。
「ねえ、さっちゃん」
「はい?」
「男女が『付き合う』って、どこからなの?」
私の唐突な問いに、さっちゃんは硬直した。
9月初めの太郎くんとのデートから、約一か月が経過していた。
結論を先に言うと、私は負けた。
いや、勝負すらできなかった。
前日、何故だかよくわからないけど
私ははるひのパフェ巡りに付き合わされて、
その胃もたれのせいで、夜寝付けなくなってしまったのだ。
(おそらく、約2か月ぶりの太郎くんとのデート、に緊張していたせいもあるだろうが)
さらに悪いことに、デートの日が八月かとよいう程に暑かったせいで、
寝不足だった私は途中で気分が悪くなってしまい、
歩けなくなってしまった。
そして、太郎くんに木陰まで運ばれて介抱された。
私が汗を垂らしながら寝っ転がってゼーゼー言っていると、
太郎くんがどこかからかアイスキャンデーを買ってきて、
私に渡してくれた。
体にこもった熱に苦しんでいた私にとっては
そのアイスはまさに救世主だった。
彼は絶妙のタイミングでアイスを買ってきて、
心配げな顔でアイスを食べる私を見守りながら、
こう言った。
「ごめんね。こんな日に屋外に連れ出しちゃって…
室内が良かったよね」
彼の顔は相変わらずとても綺麗で、憂いをたっぷりと含んでいた。
その時の私は、こもった熱で今にも溶けそうだったので、
素直に彼のオーラにやられてしまった。
こんなカッコいい人にアイスをもらって看病されて、
その上に叙情的に謝られて何も感じなかったなら、
その人は女子として終了している。
その日の太郎くんは、初めから完璧だった。
会った直後に、始業式の日の無礼を詫び、
あれは虫の居所がちょうど酷い時だったんだ、
でもそれを人に八つ当たりするなんて最悪だよね
本当に反省したよ
と私に直球で謝った。
そして太郎くんの態度は終始紳士的で、
まったくケチを入れる隙などなかった。
しかも太郎くんは、調子の戻らない私を家の近くまで送ってくれた。
そして
「じゃあ、またね」
と言って、さわやかに帰って行った。
つまり、デート中の太郎くんはまさに私の望んでいた「太郎くん」だった。
太郎くんはやっぱり優しい人なんだ、という安堵の裏側で、
大きな不安が心中をかけめぐる。
演技と保身
始業式の日に見せた、あの人を見下したような目を、私は忘れない。
志波くんと赤城くんに投げつけた暴言も、私は決して忘れない。
そして私の耳にだけ届いた、あの内心の吐露も。
矛盾している。
私がいつも見ている優しくて大人びた太郎くんと、
あの日に見た、嫌な笑顔の太郎くんは、決定的に矛盾していた。
対局のものが二つあるのなら、どっちかが偽物だ。
ならばやはり、いつもの太郎くんが演技で、
あっちのいやな太郎くんの方が本性、ということになる。
…あれが演技なら、そっちのほうが恐ろしい。
しかし、私は節度ある行動を取っていれば、
彼がそんな本性を決して見せないことくらい、十分わかりきっている。
人が何かを見下す時は、背景に必ずなにかしらのコンプレックスがある。
コンプレックスなんて、一番見られたくない部類のものではないか。
私の望む「太郎くん」が、持っていてはならない感情だった。
じゃあ、何故あの時、彼はそれを出したのか?
野球?
いや、太郎くんはテニス部である。
野球経験は、多分ない。突っかかる理由がわからない。
高校の途中までテニスをやっていたそうだが、
志波くんのように、特別な理由があって辞めた訳ではないと思う。
(「どうしてやめちゃったの?」と、彼にその理由を直接聞いたところ、
「プロ志望の人達を見てると、申し訳なくなっちゃって」という答えが返ってきた)
要するに、彼にとってはスポーツなんて、
取るに足らないことではないか?
じゃあ何で、志波くんにあんな言葉を言ったのか―
わからない。
私は正直言って、太郎くんをそこまで熟知しているわけでは無かった。
いや、携帯番号さえ知らない。
太郎くんは人に縛られるのを嫌うようだから、
携帯なんかはあえて教えないんだと解釈しているが、
それにしても、太郎くんは少し隠しすぎではないだろうか。
っていうか、おかしくね?
太郎くんは寸止めしてる。
私に手を伸ばしながらも、それが一センチ届かない所に立っている。
どうにもこうにも無かった。
本音をいうと、付き合っているのかいないのか、
付き合う気があるのか否なのか、そろそろはっきりさせて欲しかった。
でも女の私から率直に、こんなことを繰り出すのは気恥ずかしい。
私がうだうだしていると、横から声がかかった。
「先輩! せーんぱいっ!」
さっちゃんだった。
自分から声をかけておいて聞いていないとは、私も失礼甚だしい。
「先輩、何トリップしてるんですか」
さっちゃんが口をとがらせる。可愛い。
ごめんごめんと私は謝りながら、彼女に向けてこう聞いた。
「…で、何だっけ?」
「……」
爆弾がつく直前のような顔で固まるさっちゃん。
その表情に、ようやく自分が降った話題を私は思い出す。
「ああ! 男女の付き合いね!」
…先輩、ありえねえっすわ ありえねえっすわ
とさっちゃんは二度繰り返し
(彼女の口調は、ガラス細工のようなその外見とはけっこうかけ離れている)
小さくぽつりとつぶやいた。
「…やっぱり、キスしたら付き合ってるのは確定、なんじゃないですか」
「キスか」
さっちゃんはいきなり、けっこうハードルが高いところを持ち出してきた。
「でも、キスってさ、雰囲気に飲まれてついやった、みたいなことも無きにしもあらず、じゃない?」
「じゃあ…」
さっちゃんは私の耳元に口を近付け、小さくつぶやく。
「……したら、確定ですか?」
予想通りの言葉だった。
耳が少しだけ、赤くなる。
「や、やっぱりそれ? そこまでいかないとダメ?」
「いや、そこは始まりじゃなくてゴールじゃないですか?
初めはやっぱり『付き合ってください』の宣言で… って、あれ?」
言いかけて、さっちゃんは首をひねる。
「話が堂々めぐりしてますね…」
私は天を仰いだ。言葉での宣言ならともかく、それ以外で決定打は無いわけか。
そんな私の様子を見て、さっちゃんはニヤニヤ笑って私の脇腹をつついた。
「なんですか先輩、恋ですか」
あー やっぱり女の子はこの手の話に乗っかってくる。
「鯉… なのかな」
「イントネーションおかしくないですか」
「あああああーっ!! もうっ!」
私が真っ赤になって怒ると、さっちゃんは少し意地悪そうにニヤリと笑った。
「先輩、相手、誰ですか?
やっぱり志波先…」
「へえっ!?」
さっちゃんの言葉を全部聞く前に、私が彼女を遮った。
その大声に、グラウンドにいた野球部のメンバーの何人かがこっちを向く。
私は慌てて、出力を小声に切り替える。
「…志波くん? な、何で…?」
「よく一緒にいるじゃないですか」
「そ、それは友達であって…っていうかハリーともよく一緒にいるし」
「いや、ハリー先輩は友達なのはわかりますけど、志波先輩は…」
「おい」
さっちゃんの言葉にかぶさるように、低い男子の声が飛んできた。
驚いて声の方向をみると、そこにはユニフォームを着た志波くんが立っていた。
「声がうるせえ。少しトーンを落としてしゃべれ」
張 本 人
思わぬ展開に、私とさっちゃんは絶句する。
逆光を浴びて、志波くんの顔が陰になっている。
やや怖い。
「…進藤」
「は、はいっ!」
「あっちで部長が呼んでるぞ。行ってこい」
「はいっ!!」
志波くんの指示するほうこうに、さっちゃんは大急ぎで駈けていく。
その姿は、まるでうさぎだ。
ふたりぼっちになった気まずさに、私は困り顔で下を向く。
それでなくとも、志波くんは長身で、見下ろされるととてつもない威圧感があるのに。
「小野」
「な、何?」
志波くんは多くは語らないが、決して言葉を軽んじるタイプではなかった。
いや、むしろそれだからこそ、彼の言葉は重い。
…そういう意味で、太郎くんとは対極のタイプだった。
「お前、最近、少しふぬけてないか」
「…え」
予期せぬ言葉に、私は硬直した。
志波くんは、少しの甘さも見せずにこう言った。
「最近、部活に対して真剣に取り組んでない…ようにオレには見える」
彼の言葉に、私は何も言えなくなる。
そうだった。以前は野球でいっぱいだった私の脳内は、半分以上太郎くんに侵食されていた。
あれほど大事だった、野球の活動に集中できない。
正体の見えない「真嶋太郎」という人間が私の心をかきむしっていることに対して、
私はどうしてもその悩みに沈殿せざるを得なかった。
中ぶらりんの状態は、辛い。
でもそれは私の個人的な事情で、部活とは全く関係のないことだ。
いや、それ以上に、今まで以上に私には、背負うべき荷物が増えた。
「…三年が引退したんだから、事実上、オレ達が部活の最高学年だ。
お前は進藤の直接の先輩だろ。見本になれよ」
志波くんの言葉はすべて真実で、私はうなだれるばかりだった。
確かに最近の私は、さっちゃんに大分甘えている。
さっちゃんを鍛える、という名のもとに、役割の半分近くをさっちゃんに投げてしまっていた。
(もっとも、さっちゃんもこれに対して
「先輩の立派な後継者になって、はね学マネとして恥じない存在になります!」
と、好意的に解釈してくれているのだが…)
実際問題、私はさっちゃんにマネとして必要なことはすべて教えているし、
さっちゃんも乗り気で学んでくれている。
彼女は将来、必ず有能なマネージャーになるだろう。
いや、中学時代にすでに野球部マネだったさっちゃんの方が、実際は私よりもずっと有能だ。
私は野球のことなど何も知らないくせに、
白球に惹かれてフラフラと野球部に入ったタイプだった。
…結局その後、汗と涙と努力とがむしゃらで出来た野球の世界のとりこになってしまったわけだが。
でも、まださっちゃんを独り立ちさせるのは早すぎる。
彼女はまだ一年生だ。
私がマネの責任者であり、来年の甲士園まではその役割をまっとうする義務がある。
いや、したい。
ここで気を抜いてしまったら、きっと悔やんでも悔やみきれない。
でも、現実は明らかに理想と離反していた。
私がこんなんじゃ、皆に迷惑をかける―
私はいたたまれない思いで、下を向くより無かった。
そんな私の様子を見て、志波くんはこう言った。
「小野」
「…何」
「何かあったら聞く」
「…ありがと」
「でも」
志波くんの語調がきつくなる。
「真嶋太郎だけは、やめておけ」
私は絶句した。
志波くんが、どうして知ってんの?
一言も相談してないのに―
「な、何で知ってんの!?」
私の動揺に、志波くんは小さくつぶやいた。
「お前の目線を、見てたらわかる」
私は真っ赤になった。
そんなにあられもなく、太郎くんを目で追いかけてたのか
「し…志波くんが太郎くんを許せないのは知ってるよ
でも、太郎くんは、きっと凄く傷ついていて、
だからあんな言葉を言ったんだよ…悪い人じゃないんだよ」
「真嶋が傷ついているって、お前は本人から聞いたのか」
志波くんの言葉に、私はうつむくしかなかった。
「…聞いてない。一言も」
「じゃあ、あいつがきちんとした人間だなんて保障はどこにもないだろ」
「……でも、ろくでもない奴だって保障も、どこにもないじゃない…」
私の言葉を受けると、志波くんは呟いた。
「…詳しいことが聞きたかったら、針谷に聞いてみろ」
「ハリー!?」
なんでハリーが、という私の唖然とした表情を見て、志波くんは言った。
「あいつがわざわざお節介を聞かせて、オレが頼みもしないのに、
真嶋の学内の評判を調べてくれたんだよ」
「何でハリーまで、そんなこと知ってんの…
私と太郎くんの関係なんて」
私の問いに、志波くんは答える。
「あいつはオレと違って、他人のことには何気に目はしが聞くから、
お前の気持ちにも気づいたんだろ。
で、わざわざ調べてくれた。
心配してんだよ、あいつはあいつなりに」
私はいつの間にか、ハリーにまで心配をかけていたというのか。
顔から火が出そうだった。
「…で? 太郎くんの評判はどうなの?」
私が震えながら志波くんに聞くと、彼はこう言い捨てた。
「オレが針谷にまた聞きした限りでは、お前が構う価値のある奴じゃない。
真嶋のことは、ほっておけ」
「でも、太郎くんは、本当に凄く傷ついて…!」
「推測で、ものを言うな」
私の言葉を、志波くんはぴしゃっと遮った。
「お前はおせっかいだから、他人のことを、可能な限り助けようとする。
…オレみたいな、野球から逃げているだけだった臆病者でも…。
でも、真嶋のせいでお前が傷つくのは、オレも針谷も望まない」
「で、でも」
「太郎くんが悪い人だなんて、保障はどこにもないじゃない!」
「…オレに言わせれば、この前のあいつの発言で、十分悪人判定できる。
いいか、真嶋にはかかわるな」
志波くんの言葉が余りにも率直で、私は何も言えなくなった。
でも、私は太郎くんをほっておくことができなかった。
彼のあのさびしげな、舞台で見た物悲しそうな表情が事実なら、
確実に彼は、「何か」に傷ついているに決まっていた。
私の性格上、そういう人を放置しておくことは、どうしてもできなかった。
そして何よりも、私は太郎くんにファースト手繋ぎを奪われていた。
とてもとても、ドキドキした。
つまり私は、太郎くんが気になって仕方がないんだ。
どうしても太郎くんを捨ておくことが出来なかったのである。
「ねえ志波くん」
「何だ」
「…太郎くん、野球、本当は好きなんじゃないかな」
反ばすがる様に言った私の言葉に、志波くんは心底呆れたような顔をする。
「…オレの直観にかけていう。絶っ対にない」
「だよねえ…」
予想通りの回答だった。私はしょげて、下を向く。
そんな私を見て、志波くんは私の肩をポン、と叩き、小さく言った。
「…気晴らしになるかはわからねえけど、
明日のニガコク、良かったらお前も付き合うか?」
「え、女人禁制なんじゃないの?」
「明日だけ、性別男になって参加しろ」
「ひどっ!」
私の笑顔に、志波くんは少し安心したように笑った。
私は知っている。高校生の幸福というのはこういうものだ。
野球部とニガコクとアンネリー。それで十分じゃないか。
それに太郎くんは、きっとろくでなしのスカポンタンだ。
でも、彼の傷を見てしまった限り、そしてその理由を知らない限りは、
私の脳裏から太郎くんが消えることはないだろう。
ねえ志波くん、私はどっちつかずでいたい。
志波くんやハリーの思いやりも凄く嬉しいけど、
太郎くんの傷を治したい。救ってあげたい。
それって、贅沢なことなのかな?
私たちの頭上では、夕焼けの赤空と鰯雲が、
ぱぱぱぱーっと一面に広がり続けていた。
どうして皆、仲良くできないんだろう
そんな身分不相応でうぬぼれた願いを持って、
私は目を細めて空を見上げるだけだった。
→第五話
志波→デイジーが本格始動しました。
個人的に、志波は余程のことが無いと多くを語ってくれないキャラなので、
動かすのに苦労してます。
まとめると、デイジー思いあがってんじゃねえよ
という印象を持って下されば幸いです。
あと、ハリーは意外と、陰で友達のために暗躍してくれるタイプだと思ってます。
ヘタレ(褒め言葉)なので、自分がデイジーを好きな時は駄目でしょうが…
今のところは名前だけしか登場してないハリーですが、
ハリーとデイジーの友情も、書けたらいいなーと思います。
2008.8.23
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