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Hurry_7
あの甲士園での奇跡的な優勝劇から、一か月以上が経った。
今でも、試合終了時の熱狂と
その直後に行われた志波へのインタビューを思い出す。
『志波くんは、最後の試合で逆転ホームランを打ちましたね』
『はい。打てると思って、思いっきり振りました』
『はね学は、初出場で初優勝という快挙を成し遂げましたが…』
『…支えてくれた人達のおかげだと、思います』
『回りの人のおかげで、ここまで来れたと?』
『はい』
インタビューは、彼らしい淡々とした口調で進んでいた。
が、根底に流れる思いを針谷は感じる。
美奈子。
今更、言うまでもなかった。
甲士園終了後、メディアが取材のためにはね学に殺到し、
野球部は時の人となった。
特に逆転ホームランを打った志波はヒーロー扱いで、
注目を浴びる事も多かった。
下校途中にファンに囲まれ、
繁華街に行けば握手やサインを求められる。
そんな友人に対して、針谷はジャンルこそ違えど、
どうにも口にしようもない、嫉妬を感じることもあった。
美奈子を奪い合っていないのは、幸いである。
だが、当の志波はちやほやされることに対して迷惑そうなそぶりを見せており
「一時の熱狂みたいなもんだ。そのうち静かになんだろ」
と、今までの生活を変えるそぶりはなかった。
そんな志波を見ていると、俺もデッケェことをしねぇとなぁ…と、針谷は身につまされるのだ。
『Red:Cro'Z』の秋ライブも、三週間後に控えている。
交差点を歩いていると、ふと寒い風が身を襲う時がある。
九月の半ばから、急に寒くなった。
日が落ちるのも、夏よりずっと早くなった。
あと一か月しないうちに、はばたき山も色づくだろう。
―ライブが終わったら、バンドの奴らでも誘って、
はばたき城から紅葉でも見っかな…
そう針谷が思った瞬間に、視界に見覚えのある人物の姿が映った。
それは、随分懐かしい存在だった。
本当に長く見ていなかったので、彼がまだいた事自体が幻想のようだ。
―真嶋太郎
あの日アルカードで劇的にすれ違って以来だったが、その憂いは変わらない。
むしろあまりにも変化がなくて、気味が悪いくらいである。
針谷は、向こう側からやってくる真嶋を見つめた。
だが真嶋は携帯をいじっており、針谷には気がつかないようだった。
関わる必要も無いので、すれ違う人ごみの一員として、真嶋を放置した。
今の美奈子に必要なのは、信条をかけて恋をする事ではない。
針谷は、美奈子に普通の平和な学生生活を送って欲しかった。
甲士園以来、周囲では志波と美奈子が付き合っているという噂が流れていた。
確かに、あの二人が一緒にいると、割って入れないような空気をかもすのだ。
二人が針谷に声をかけてくるので、よく行動は共にしているが
(いつの間にか、ニガコクは復活していた)
針谷としては、あの二人がくっつけば、それで良いと思っていた。
あの危機を乗り越えたのだ。
ここまで来たら、急かしてくっつける必要も無い。
二人の好きなようにすればいい。
針谷と真嶋の距離が完全に遠ざかる直前に
真嶋が悲しそうに針谷の方を振り返った。
が、それに針谷が気がつくことは無かった。
針谷の姿は雑踏の中に消えていき、その姿を目で追うことは不可能だ。
真嶋の眼は、家を失った犬のそれである。
彼は、世界の全てに対して贖罪をしていた。
針谷はとある花屋へ向かっていた。
今日、授業中にこんなメールが母から届いたのだ。
「放課後に:
アンネリーでお婆ちゃんの花かってって! 母」
お婆ちゃんの花、というのは、祖母が日舞で使うものである。
祖母はアンネリーを気に行っており、大抵ここで踊りの花を買っていた。
つまり、針谷は今日、学校帰りに祖母に花を届けに行くのだ。
実は大のお婆ちゃん子…というのは、学内ではちょっとした秘密である。
アンネリーに行くと、店頭に見慣れた人間達の姿があった。
大学生アルバイトの真咲がいたのは想定内だったが、
そこには何故か志波と美奈子の姿もあったのだ。
針谷が意外そうな顔をすると、美奈子が笑う。
「オッス、ハリー。うちに飾る花を買いに来たんだ」
甲士園以来、美奈子は随分顔のつやが良くなった。年相応の丸みも戻っている。
こう言うと「太ったってこと?」と曲解されるので言わないが。
「よう。お婆さんの花か?」
エプロン姿の真咲が問うと、針谷は頷いた。
「あ、ハイ」
花屋の店先というのは、季節を映す。
緑の中で、オレンジが鮮やかに散っていた。
ハロウィンは大分先なのに、小さなカボチャのディスプレイが賑やかだ。
一方では、藤やコスモスなどの情緒ある花が、ひっそりと飾られていた。
「こっちである程度、選んでも良いか?」
真咲が聞くと、針谷はお願いしますと頷いた。
「了解しました。おい、有沢ー!」
真咲の声に呼応するかのように、眼鏡姿の知的な女性が店の奥から出てきた。
針谷はあまり彼女と話をした事はない。
有沢はそつなく日舞にふさわしい花を選んでいき、かなり大きめの花束を作った。
「…これで大丈夫かしら?」
そのきびきびした手つきに感心しながら、針谷は了解の意を伝えた。
「あなた、小野さんの友達だったの?」
「あ、そうです」
音楽と関係ない場面では、人見知りが激しく出てしまう。
言葉使いも無駄に丁寧になった。
「学校で、私と志波くんとよく行動してるんです。
針谷っていうんですけど、ハリーで呼んでください。
そう言わないと怒るんで。
バンドやってんですよ」
美奈子の無駄に詳細な紹介が、何だか恥ずかしかった。
有沢はくすっと笑う。
「あら、そうなの。
私の友人にはバンドをやるような人はいなかったから、何だか新鮮ね。
私は有沢志穂。はば学出身で、ここでずっとバイトをしているの」
「あー… えーと、美奈子が世話になってます」
針谷の謎の言葉に対し、美奈子と有沢、真咲が笑った。
「はば学ってことは…えーと」
吉冨や森を知ってますか?
と聞こうとしたが、何となく有沢は彼らを知らなそうなので辞めておいた。
多分、野球に興味なんか無いだろう。
いや、今年の地区予選決勝で、確かはば学の応援に行ったという話をはるひから聞いた。
もしかして、知っているか?
「有沢さん、野球部の面子、知ってますか?」
「今の子達は、直接の面識はないわ。
私は今、大学三年生だから、ちょうど入れ替わりなの」
「有沢は、俺の一個上だよ」
二人の会話に、真咲が入る。
真咲先輩の一個上ってことは…
年齢計算がごちゃごちゃしてきた。
「オレは島田や日比谷の世代。
つうか、おまえ野球好きなのか? 意外だなー」
真咲の言葉に
「好きっていうか…いや、好きです」
と謎の返答をしつつも、針谷の中で年齢表がすっきりした。
「そういえば、こいつら、明日その二人に会うんだってよ」
真咲のセリフに、針谷は驚く。
「マジかよっ!?」
志波は無言で頷いた。
「…一流体育大の野球部代表として、オレと話したいって…
向こうからそう言ってきた」
それは、オファーではないか。
「スゲェ…。美奈子も行くのか?」
針谷が聞くと、志波は少しだけ気まずそうに沈黙したが、
観念したように言う。
「…オレだけだと、会話が持たないからな。
小野に一緒に行ってくれるように、頼んだ」
―案外侮れない。
恋愛に関しては消極的なのかと思っていたが、
そういう訳でもなかったようだ。
美奈子は少しはにかんだが、すぐに有沢の方を向く。
「有沢先輩、あの…なんか良い話題、無いですか?
あの二人と話すって聞いたら、私も緊張しちゃって…」
「眼鏡屋の話でもしておけば、何とかなると思うわよ」
「えっ?」
美奈子の顔を見て
有沢はごめんさない、と笑った。
どうも、からかっていたらしい。
「島田くんはわからないけど、日比谷くんは少し面識があるわ。
かなり気さくな性格の人だから、
向こうからどんどん話をふってくれるんじゃないかしら」
針谷は四月の喫茶店での出来事を思い出す。
―確かに気さくだった。
有沢は、花の手入れをしていた真咲の方を向く。
「真咲くんも、あの二人と知り合いよね?」
「…ま、中学校入ってからは交流消えちまったけどな。
小学校ん時、同じ野球クラブに入ってたぜ」
「そ、そうだったんですか…!?」
美奈子も知らない事だったようで、彼女はポカンと口を開けた。
「全然、知らなかった…」
「…俺も、初耳だ」
志波も知らなかったという事実に、針谷は別の意味で驚く。
確か、幼馴染だったはずだ。
「小四から入るチームだったから、お前はちょうど入れ替わりだろ」
真咲はそう言いながら、植木鉢を持ち上げる。
「よいしょっ…!
まぁ、島田はともかく…日比谷はあんまり目立つ選手じゃなかったからなー
体も小さかったし…
別の意味で目立ってたけどな」
「ムードメーカ的なやつっすか」
針谷が思わず発した一言に、真咲は頷いた。
「ああ、友達は多かったな。
でも、当時はむしろ監督に『うるさい』って注意される存在だった。
ん? お前も日比谷と知り合い?」
「いえ、それほどじゃないですけど」
「…だから、まさかはば学であんなに活躍するとは、思ってもなかったな」
真咲は手についた土を払う。
「そう言えば、真咲くん。高校生の時に甲士園の地区予選を見に行ったのよね」
有沢の何気ない言葉に、真咲の眉が少しだけ歪んだ。
「行ったけど… 隣が修羅場ってたから…あんまり思い出したくないんだよな」
「修羅場?」
美奈子が純粋な好奇心をにじませた顔をする。
修羅場と聞けば、中身を聞きたくなるのが人間の性分だろう。
真咲もその空気を読んだのか、少し間をおいて言った。
「…んー。おまえら、真嶋太郎って知ってるか?
オレの頃は、有名人だったんだけど」
真咲の発言に、針谷は反射的に美奈子の方を見る。
これが心配さ故か、見物根性なのかは、針谷にはわからなかった。
何故なら、志波はぶれていなかったからだ。
彼は不機嫌そうな顔をして、こう言いかける。
「おい、そいつの話は…」
だが、美奈子が遮った。
大人のような、毅然とした態度であった。
「知ってます。真嶋先輩と、何かあったんですか?」
「……」
志波は心配そうな目線を美奈子に向けたが、彼女は真咲を見つめることで
自分の意思を示した。
二人の様子を見て、真咲はかなり怪訝そうな顔をした。
が、美奈子と志波と真嶋の関係など推測不可能であろう。
「おまえら…何かあったのか?」
と質問しても
「なんにも」
と、美奈子に振り払われるだけだ。
真嶋太郎を知らない唯一の人物である有沢も、不穏な空気を感じ取っているのか
顔から笑みを消していた。
「…わかったよ。話す」
美奈子の視線に耐えかねたのか、真咲が重い口を開く。
「長げぇぞ?」
「平気です」
美奈子の言葉に、志波が諦めたように息をつく。
志波というのは、妙に度胸の座った男である。
自分が彼の立場なら、悔しいが話を強制終了させるだろう。
真咲の、長い話が始まった。
「オレが高三の夏…三年前の地区予選の話だ。
はね学とはば学の試合があって、オレは友達と見に行った。
もちろんはね学に勝てるわけはねーってわかってたけど、ま、自分の学校の応援ってことだ。
その時の試合で、はば学のバッテリーは日比谷と島田だった。定番だな。
甲士園の優勝バッテリー…正直オレの目から見ても、あの二人の安定力は異常だったよ。
うちの野球部なんかじゃ、悪りぃが勝負にならなかったな。
試合は始終はば学にリードされっぱなしだった。
…で、その時に、オレの隣に座ってたのが真嶋太郎。
おまえらには信じらんないかもしれねーけど、
あいつは昔は…恋愛ゲーム?みたいな変な遊びをするような奴じゃなかったんだ。
もっと温室の草みたいな、健全で無害な野郎だった。
あいつがおかしくなったのは、一年の終わりに彼女と別れてからだってな」
美奈子の口が少し引きつった。
針谷は、話を中断させたくて仕方がなくなってきた。
だが、志波は動かない。
「ま、その真嶋の彼女っつーのが…学校一の美人でさ。
頭が良くって話も上手かった。オレと同級生だった。
みんな『マドンナ』って呼んで、密かに憧れてたんだよ。
…アレな噂が多すぎて、オレの好みじゃーなかったけどな。
このマドンナが選んだのが、温室育ちの爽やかな坊ちゃん。
こんな小説みてーな組み合わせ、なかなか無かったよ。
えーと…脱線したけど、この二人が、オレの隣に座ってたんだ」
美奈子は黙り込んで聞いていた。
いきなり登場した、作りもののように嘘くさい人物に彼女は何を思うのか―
「…まぁ有名な二人だったからな。
オレもちょっと『おっ』って思っちまったわけ。
もちろん試合は見てたけど、途中で聞いたマドンナの言葉がよ、
一生忘れられないようなモンだった」
「…どんな言葉ですか?」
「小野」
志波がとうとう美奈子を抑えようとしたが、美奈子には届かなかった。
「教えてください」
「…マドンナが、真嶋にこう言ったんだよ。
『日比谷くんは、顔も身長も太郎くんには及ばないのに
甲士園に優勝して、テレビにいっぱい出て
太郎くんよりずっと有名だよね?
私、あれ位有名な彼氏が欲しいの。
太郎くんはテニスは強いけど、ちっとも有名じゃないじゃない。
テニスじゃなくて、野球をやってよ。
ねぇ太郎くん、ちょっと野球部に入って甲士園に出てくれない?』
…ってな。
横で聞いてて、オレは愕然としちまったよ。
甲士園優勝投手と自分の彼氏を天秤にかけるなんて、ひでえ女だって」
―何だそりゃ、頭おかしいんじゃねぇかソイツ
と針谷が思った瞬間に、小さな、しかし絹を裂くような感情的な声がした。
「…何で…何で太郎くんと…
太郎くんと日比谷さんが比べられなきゃいけないんですか…」
まずい、と針谷は思う。
「…野球とテニスは、ぜんぜん別のスポーツでしょ?
知名度の大きさなんか、甲士園の影響で野球が特別取り上げられてるだけでしょ!?
なんなんですか、その人。
太郎くんを何だと思ってるんですか…
太郎くんはアクセサリーじゃないっ!!」
美奈子は震えながら叫んでいた。
彼女の眼は涙か何かで曇り、感情を押し殺すという配慮も取れない状態だ。
志波は愕然とした様子で、美奈子を見つめていた。
彼自身が、戸惑っている。
どうすればいいのか、わからないのだ。
―こんな場面は見たくなかった。
針谷は心底、そう思う。
どうして志波も美奈子も、こんな目に合わなきゃいけねぇんだ!?
自分から踏んだ地雷でも、ここまで傷をえぐるものだとは思わなかっただろう。
もういい加減、真嶋を二人にとっての故人にしてやってくれないか。
「お、おい… どうした!?」
真咲が心配そうに美奈子を覗き込む。
「様子が普通じゃねぇぞ?
それに『太郎くん』って…
おまえ、もしかして真嶋の知り合いか?」
美奈子はうつむいたまま、しばらく静止していたが、
やがてゆっくりと顔をあげ、うつろに微笑んだ。
「いえ、違います。ただ、酷い話だったからおもわず」
「…そ…そうか?
ま…まぁ、エグい話聞かせて悪かったな」
真咲は少し気まずそうに笑い、美奈子の頭をポンと軽く叩く。
その様子は、本当に『お兄ちゃん』そのものだった。
「あ、じゃあ、私達もう行きます。
店長にもよろしく伝えてください。
…取り乱しちゃって、すみませんでした」
美奈子は無理矢理笑う。
「明日のお茶会、頑張ってきますね!
うまく行ったら報告します」
美奈子のつくろったような笑顔に呼応して、志波が無表情に軽くうなづく。
彼の瞳は、フェンスを掴んでいた頃のように、光を失っている状態だった。
二人は並んで帰っていく。
美奈子と志波が視界から消えた瞬間に、
「…知り合いだったのか?」
と針谷は真咲に聞かれる。
どうにもうまい言葉が浮かばなくて悶々としていると、
大学生である二人はそれだけで察してくれた。
「…オレ、すっげー自己嫌悪。成人した奴のやることじゃねーよなぁ…
途中で辞めときゃ良かった」
本気で落ち込んだのか、長身を地面にかがめている真咲に対し、有沢は困ったように首を振る。
「…真咲くんの責任じゃないわ。私達は何も知らなかったんだもの。
小野さんも、言ってくれればまだ何とかなったのに…」
かけるべき言葉も浮かばずに針谷が呆然としていると、
有沢が彼にこう言ってきた。
「貴方達は真嶋くんを知ってるけど、私は知らないわ。
日比谷くんのことは、一応五人とも知ってたわね。
でも私は、きっと貴方達とは別の視点で日比谷くんを見ていると思う」
針谷にとって、有沢の言葉は暗号文のようである。
それを知ってか知らずか、有沢は続ける。
「…少なくとも、私の見ていた日比谷くんは、初めから一流投手だったわけじゃないわ。
もちろん、はば学在学中にいきなりスターになった訳でもない。
…小野さんが、それだけはわかってくれれば良いんだけれど」
残念ながら、有沢の気持ちは美奈子には届いていなかった。
程なくして、針谷はアンネリーの店頭から去る。
あのアルカードでの場面が頭に何度もよぎる。
絶望した真嶋太郎の姿と、恐ろしく冷静に微笑む美奈子の顔。
あの出来事は、今の美奈子にとってどんな意味を持っているのか?
さっきの悲痛な叫びは何だったのか。
真嶋に関しても、どうしようもない情報更新を余儀なくされた。
あいつは徹底した悪役で良いんだ。
ヘンな同情要素を入れたら、判断力が鈍るじゃないか。
マドンナなんか関係ない。
真嶋の傷なんか、美奈子が抱えるものに比べたら、きっと矮小に決まってる。
―どうか、そう思わせてくれ。
「…ったくよぉ… …どうなってんだよ」
彼は大きな花束を持って、嵐を待つ羊のような心境で祖母の家へと向かっていった。
眼前に大きな嵐が来ていることだけは、アーティストの勘として察知できたのである。
だが、それに対抗する術は持ってはいなかった。
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ようやく、太郎の過去を書けました。
うっかり役をさせてしまった真咲先輩には、本当に申し訳ないです。
実は真咲先輩も野球経験者(byドラマCD)とは…!!
太郎とマドンナのエピソードは、力強く大妄想です!
2010.10.17
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